周瑜と劉備の攻撃
さらに曹操軍の内部では、周瑜が予想した通り、すでに疫病が広がっていました。
そこに火計の被害が出て、戦闘力が大きく落ちたところに、周瑜と劉備が強襲をしかけます。
彼らは軽装の精鋭を率い、火の延焼を追いかけるようにして、曹操軍に突撃しました。
すると曹操軍はけちらされ、曹操自身も逃げ出さざるを得なくなります。
逃げる曹操軍を散々に追い散らし、周瑜と劉備は戦果を拡大しました。
特に、この時の劉備の攻撃は激しいもので、曹操は乗馬も失い、ぬかるんだ道を歩いて逃げざるを得ないほどに追い込まれ、被害が増大していきます。
こうして曹操は、四倍以上の兵力を持っていたにも関わらず、周瑜と劉備に敗れ去ったのでした。
曹操は北方に撤退し、周瑜と劉備は荊州に侵攻する
曹操は荊州に戻りましたが、疫病がさらに蔓延し、多くの将兵を失ったため、戦線を維持できなくなってしまいました。
このため、ついに本拠である北方に撤退することにします。
曹操が敗れたことが伝わると、まだ安定していない北方の情勢がどうなるかわからないため、戻らざるを得ない事情があったのでした。
曹操は荊州の中央部にある江陵に、将軍の曹仁を残して守備を委ねました。
しかし周瑜と劉備はこの機会を見逃さず、曹仁に攻撃をしかけて打ち破り、江陵を占拠します。
そして周瑜が南郡太守となり、劉備は残る荊州南部の六郡を攻め落とし、確固たる根拠地を手に入れました。
こうして荊州は、北部を曹操が、中〜南部を孫権と劉備が支配するようになり、三つに分かたれたのでした。
劉備は元より荊州で人望があったため、この時期に多くの人士を配下に加え、戦力を増大させています。
劉備はさらに益州をも制する
さらに、勝利を収めた劉備の元を、曹操が怒らせた張松が訪れ、劉備の歓待を受けました。
張松は英傑である劉備こそが益州の支配者にふさわしいと考え、劉備に劉璋を打倒し、益州を占拠することを勧めます。
劉備はその後、腹心の龐統の説得を受け、益州を手に入れることを決意し、やがて蜀を建国するにいたります。
これはすべて、曹操の赤壁前後の失策がなさしめたことで、もはや曹操にも、劉備を簡単に打ち破ることはできなくなります。
曹操はその後、涼州や漢中を制して勢力を伸ばしますが、荊州を奪還することはできませんでした。
そしてついに、生涯の全てを費やしても、天下を統一することはできずに終わっています。
曹操の敗因
これまで述べた通り、曹操の敗因は、大軍を頼みにした軽率な進軍にあったのだと言えます。
将兵がまとまりきれておらず、時期が悪く、不得意な水戦に挑むなど、様々な悪条件を抱えていましたが、それを無視して侵攻を強行したことで、必然的とも言える敗北を喫したのでした。
曹操が慌てて動かず、荊州の支配を固めつつ、じっくりと孫権の陣営に切り崩しをかけていれば、もっと確実に勝利できていたでしょう。
天下の統一が現実的に目の前に見えたことで、焦って結果を求めてしまったために、曹操は二度と挽回できない状況を作ってしまい、功業を果たすことができなくなってしまったのでした。
孫権と劉備の勝因
これに対し、孫権の陣営は、周瑜と魯粛が抗戦に議論を傾け、黄蓋が的確な策を提案したことで、困難な状況を打破することができました。
そして関羽や張飛など、精強な武将を率いる劉備がこれに加わったことで、曹操の大軍を打ち破り、勝利を決定づけています。
彼らは劣勢にあったからこそ連携でき、圧倒的な強者であった曹操を打倒することができたのでした。
強者のおごりと弱者の連帯が、数の差を埋める要因となり、劉備と孫権に勝利をもたらしたのです。