赤壁の戦いで劉備と孫権が曹操に勝利できたワケ

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黄蓋の策

こうして両軍が間近で接する状況になると、呉の宿将である黄蓋こうがいが、周瑜に策を提案しました。

数で大きく劣っている以上、手をこまねいていては勝利できないので、こちらからしかけるべきだというのが、黄蓋の主張でした。

そして曹操軍の船団は、船尾と船首がくっつき合うほどに密集をしているので、火をつければ次々と延焼し、まとめて焼き払うことができると指摘します。

曹操がそのような状態で船団を放置していたのは、水戦には不慣れで、その危険性に気づいていなかったからでしょう。

三国志演義では、船をつなぎ合わせてゆれを抑え、水戦に不慣れな北方の兵が戦いやすくするためにそうしていたのだと描かれています。


【火計を提案した黄蓋】

策の準備

周瑜は黄蓋の策を採用し、数十隻の軍船に、枯れ木や薪などを積み込み、それに油をかけさせました。

そして幔幕でおおって表から見えなくし、軍旗を立てて武将が乗っているようにみせかけます。

こうして火計の準備ができましたが、どうやってこれらの船を曹操軍の船に近づけるか、という問題が残りました。

このため、黄蓋はもう一つの策を実行することにします。

曹操に降伏を申し入れる

黄蓋は曹操に使者を送り、降伏をしたいと願い出ました。

これは本気ではなく、火計をしかけるための偽りです。

黄蓋は、呉の者たちは降伏を願っているのに、周瑜と魯粛だけが情勢を理解せず、頑固に抵抗を主張しているのだと曹操に伝えました。

しかし周瑜らの軍勢はたいしたことがないので、自分はこれに従わず、適した機会を見つけて曹操に寝返りたい、とも手紙に記しています。

曹操の返答

黄蓋は孫権の父・孫堅の代から仕えている呉の忠臣でしたので、曹操は疑いを抱きました。

黄蓋が本当に寝返るのかどうか、危ぶんでいることを使者に伝える一方で、これを実行すれば、かつて例がないほどの報償や爵位を与えることを約束します。

黄蓋ほどの武将が本当に寝返れば、呉の勢力は内部から崩壊し、勝利が確実となります。

そして天下の統一は実現したも同然になりますので、曹操が報償を惜しまないのは当然のことでした。

黄蓋の降伏にはそのような重大な意味があったので、曹操は疑いつつも、黄蓋の申し出を、ひとまず受け入れることにしたのでした。

それに、もしも偽りだったとしても、圧倒的な大軍を率いているのだから、大勢たいせいに影響はあるまいと、判断をしたのでしょう。

こうして曹操は、まんまと黄蓋と周瑜のしかけた罠に、はまってしまったのでした。

なお、三国志演義では、この時に黄蓋はわざと周瑜を侮辱し、鞭によって叩かれる刑罰を受けることで、自分の行動に信憑性を持たせようとしたことになっています。

これを「苦肉の計」といいます。

火計の実行

黄蓋は周瑜が用意したのとは別に、十艘の高速船に燃料を積み込み、準備済みの数十隻の船を率いることにします。

そして準備が完了すると、いよいよ曹操軍に向かって船団を出発させました。

長江の真ん中あたりまで乗り出すと、黄蓋は兵士たちに「降伏!」と大きな声で叫ばせます。

すると曹操軍の将兵たちは「黄蓋が降伏してくるぞ!」と言って、その様子を見物しました。

こうして黄蓋は、曹操軍が見守る中、船団を近づかせていきます。

折しも、強い東南からの風が吹いており、南から北に向かって火計をしかけるには、絶好の条件が整っていました。

三国志演義では、諸葛亮が呪術を用いて風を吹かせたことになっています。


【諸葛亮 三国志演義では10万本の矢を得る策も用いたことにもなっている】

黄蓋はあと少し、というところまで近づくと、兵士たちに命じて船に火をつけさせ、そして乗っていた者たちはみな、長江に飛びこみます。

火がつき、無人となった黄蓋の船団は、風にのって矢のような速さで突き進み、曹操軍の船団に打ち当たります。

するとすぐに火が燃え移り、隣接している他の船にも、連鎖的に広がっていきました。

火の粉が飛び散り、炎が激しく燃え上がり、曹操の船団を丸ごと包み込みます。

のみならず、それは陸上の陣営にまで延焼し、おびただしい数の人馬を焼死させました。

こうして黄蓋の策は成功し、曹操軍は甚大な被害を受けたのでした。

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