荀彧 曹操の元で王佐の才を発揮するも、自害に追い込まれた悲運の宰相について

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荀彧は質素な暮らしを営んでいた

荀彧の領地は1000戸から2000戸に増加され、大きく収入が増えていましたが、荀彧は蓄財には興味のない人物で、親類縁者に収入を分け与え、常に身辺を清らかに保っていました。

これは荀攸も同じで、出世したからといって、それで図に乗るようなことはありませんでした。

荀彧はこれまで見てきたとおり、戦略を立てるのに長けており、同時に私服をこやさず、公平に政治を行える人格も備えており、曹操にとっては実に頼りがいのある、腹心中の腹心であったと言えます。

このため、曹操からの待遇は手厚く、荀彧の長男の荀惲(じゅんうん)に自身の娘を嫁がせる措置も取っています。

そして曹操は朝廷の最高位である三公にも荀彧を推薦しようとしますが、荀彧は強く辞退の意を表したため、曹操はやむなくこれを取り下げています。

いずれにしても、この時までは曹操と荀彧の関係は非常に良好であり、曹操は荀彧の功績に、適切に報いていたことになります。

荊州を攻める

208年に河北平定を完了した曹操は、荊州の劉表を攻めることを計画し、荀彧に策をたずねました。

この時に荀彧は「中原が平定された以上、劉表は追いつめられたことを理解しているでしょう。このため、大軍を発して公然と寃や葉に出兵し、間道に軽装兵を送って不意をつけば、彼は降伏の道を選ぶでしょう」と曹操に意見を述べました。

曹操が出兵すると、ちょうどその時期に劉表が病死し、その後を劉琮が継ぎました。

劉琮は曹操の大軍が侵入すると、これに抵抗せずに降伏し、荊州を譲り渡しています。

これによって南方にも足がかりを得た曹操は、揚州を治める孫権にも大軍の姿をちらつかせ、書簡を送って降伏を迫りました。

赤壁に敗れる

しかし孫権は荊州の一部を抑えた劉備と同盟を結び、曹操と対決する姿勢を見せます。

このために曹操は長江を渡って孫権の領地に攻め込もうとしますが、疫病の蔓延によって兵力を損耗し、さらに孫権の重臣である周瑜と黄蓋の策によって敗北を喫したことで、南征は失敗に終わりました。

この「赤壁の戦い」の敗北によって、劉備が荊州南部を抑えて割拠し、孫権も勢力を増大させており、曹操の天下統一は大きく後退することになりました。

曹操を魏公に擁立しようとする動きが強まる

孫権や劉備との抗争が膠着する中、212年ごろになると、朝廷では曹操を魏公に叙勲し、九錫を授けようとする動きが強まっていきました。

九錫とは、皇帝から臣下に下される最高の恩賞のことであり、かつて前漢から皇位を簒奪した王莽が、これを与えられたことがありました。

このため、この動きは漢に曹操が取って代わる道を開いてしまう可能性があり、漢王室を守ることを目標にしていた荀彧は、この動きに反対します。

この時に荀彧は「公(曹操)が義兵を起こしたのは、国家を安定させるためであり、真心からの忠誠を保持し、謙譲さを守ってきました。君子は私利を求めるべきではなく、魏公の地位と九錫を得るのはよいことではありません」と述べ、曹操の重臣の中では、ただひとり反対の立場を取りました。

しかし曹操自身が九錫を受ける意志を表明するようになり、荀彧との関係が悪化していきます。

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