荀彧 曹操の元で王佐の才を発揮するも、自害に追い込まれた悲運の宰相について

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許攸の寝返りによって勝利を得る

すると、やがて袁紹の陣営から軍師の許攸が寝返り、曹操の元を訪れました。

荀彧が「貪欲で身持ちが悪い」と評した許攸でしたが、もともと袁紹から受け取っていた報奨に不満があり、そのうえ不正を働いていた家族が逮捕されてしまったこともあって、袁紹陣営にいても将来がないと判断し、旧知の曹操のところにやって来たのです。

そして許攸は、烏巣(うそう)の地に袁紹軍の食料が大量に備蓄されていることを伝え、これを焼き払えば袁紹軍は食料不足に陥って撤退せざるを得なくなると策を述べました。

これを群臣たちは疑って信用しませんでしたが、荀攸はこれが絶好の勝機であることを理解し、曹操に許攸の策を採用するようにと進言しました。

曹操は荀攸の勧めを受け入れ、ただちに5千の兵を率いて自ら出陣し、烏巣を強襲します。

これを受け、袁紹の陣営では対応策が協議されますが、郭図が策を誤り、十分な救援を烏巣に向かわせないという失策を犯しました。

この結果、曹操は烏巣の攻略に成功し、袁紹軍の食料をことごとく焼き払います。

食料を失った袁紹はこれ以上の継戦が不可能となって撤退を強いられ、兵力で圧倒しながらも曹操に敗れる結果となりました。

劉表を攻めるか、袁紹を攻めるか

201年になると、曹操はもう一度袁紹と戦うために兵糧を集めようとしますが、思うような量が集められず、行動の方針に迷いを生じさせていました。

そして、北の袁紹ではなく南の劉表を討とうかと考えますが、荀彧はこれに反対します。

「袁紹は官渡で敗北を喫したため、将兵の心は離れていますので、この機会につけこんで倒してしまうべきです。もしも背を向けて南方に遠征をすると、袁紹が息を吹き返して背後から来襲し、公の覇業は失われるでしょう」

曹操はこの荀彧の言葉を受け入れ、北上して袁紹軍と戦い、倉亭で再び勝利を収め、さらに袁紹を苦境に陥れています。

翌202年に袁紹は失意の中で病死し、曹操は大敵を撃破することに成功しています。

袁家の分裂と、河北の制覇

袁紹の死の時点では、その勢力はまだ強大でした。

しかし跡継ぎを明確に定めなかったため、死後に長男の袁譚と三男の袁尚が家督争いを始めてしまいます。

まず郭図が袁譚を擁立したのですが、郭図と仲の悪い審配と逢紀が独自に袁尚を擁立し、このために勢力が分裂してしまったのです。

このあたりの袁紹軍の家臣たちの動きも、荀彧が事前に予想した通りになりました。

曹操はこの状況を利用し、まず袁譚と同盟を結んで袁尚を討ち、その後で袁譚も倒して河北の地を制しました。

これによって曹操は8州の支配者となり、並ぶ者のいない大勢力の構築に成功しています。

後漢では19州に大陸が分けられていましたので、この時点で4割以上を抑えたことになります。

曹操から顕彰される

曹操は袁紹軍との戦いにおいて大きな功績があったとして、万歳亭侯という爵位が荀彧に授けられるように措置を取りました。

荀彧は戦場での功績がないことを理由に辞退しますが、曹操は「荀彧の働きは戦場で働いた将軍たちに勝る」と高く評価しました。

このため、荀彧もようやくこれに応じています。

これは内政や統治に活躍した蕭何を勲功第一と評価した、劉邦の故事にならっての措置だと思われます。

これ以外にも、甥の荀攸が軍師の筆頭の地位につき、兄の荀衍(じゅんえん)が列侯に封じられるなど、荀家一族が曹操の元で地位を高めていきました。

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