曹操は儒教を嫌っていた
曹操はこれまでは表にあらわしていませんでしたが、荀彧とは違って儒教を重んじる心を持っておらず、それにふさわしい実力を得たのであれば、漢に自分が取って代わってもよいではないかと考えるようになっていました。
事実、208年に曹操は、孔子の子孫である孔融を、妻子ともども処刑してその系譜を絶ち、後世から非難を受ける原因を作っています。
また、曹操は人材登用の方法を、それまで徳を備えているかを問う孝廉が重視される状況を変え、唯才(ゆいざい)という、人格を問わずに才能を重視する方針に切り替えるなど、明確に儒教の思想と違えた方針を取るようになっていました。
また、こうした姿勢を見せることにより、漢王室からの皇位の簒奪を正当化しようとする意志も持っていたのだと思われます。
このため、儒教の思想と道徳を重視する荀彧とは相容れぬ関係になっていき、これまでは順調に行っていた君臣の間に、大きな亀裂が走ることになります。
その死
212年のうちに、曹操は孫権を討伐すべく出兵しますが、この時に荀彧も軍勢の慰労に赴くようにと命じられました。
このために荀彧は珍しく従軍をしますが、やがて病にかかって寿春に残留することになります。
そこで急に病が重くなり、苦しみのうちに死去したと言われています。
この時に荀彧は、曹操から中身が空の器を贈られており、これを「お前はもう必要ない」と告げられたのだと解釈し、自殺したとされています。
事前に荀彧を都の外に連れ出す措置を取っていることから、その状況を利用して曹操が荀彧を殺害した可能性もあるでしょう。
いずれにしても、この頃には曹操にとって荀彧は、「最大の功臣」から「野望の邪魔をする不要な存在」へと格下げされており、このために排除された、とみるのが妥当なようです。
こうして荀彧は曹操の覇業に多大な貢献をしたにも関わらず、あっさりと切り捨てられてしまいました。
享年は50でした。
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