蜀の司徒となる
劉備は219年に漢中王になりましたが、この時に許靖は太傅(王の師)となっています。
この時、群臣たちが漢中王に推挙する上表をしましたが、許靖は鎮軍将軍の号でこれに名を連ねました。
そして221年に劉備が蜀の皇帝に即位した際に、次のような辞令が出されています。
「朕は大業を奉じ、万国に君臨することになったが、朝も夜もおそれを抱き、国家を安んずることができないのではないかと危惧している。
民が互いにいたわりあわず、五品(親子や兄弟の順序)がないがしろにされているので、汝を司徒(大臣)とする。
慎んで五つの教えを普及させ、寛容をあらしめよ。
よく勤め、徳義を守って怠ることなく、朕の意にかなえ」
これは丞相となった諸葛亮の次席に位置したことになり、許靖の地位がおおいに高まっています。
やがて死去する
許靖は70才を越えても人を愛し、後進を受け入れ、清談(世俗に関わらない話)をして倦むことがありませんでした。
博愛精神をもっていたことは、生涯変わらなかったようです。
このため、丞相の諸葛亮以下、蜀の臣下たちはみな許靖に敬意を示しています。
許靖はやがて、222年の8月に死去しました。
在任期間が短かったので、司徒としての活動はさほど記録されていないのですが、劉備の子、劉永や劉理が王に封じられた際に、それを伝える使者となっています。
息子の許欽は、許靖よりも先に死去していました。
許欽の子・許游は後に尚書(政務官)になりました。
許靖は蜀に入った後も、魏の高官となった王郎や華欽、陳羣といった人々と交流を続けており、親しい手紙のやりとりをした跡が残っています。
許靖評
三国志の著者・陳寿は「許靖は早くから名声があり、篤実さで評判を得ていた上に、すぐれた人物を見いだすことに心を向けていた。
その行動は、全てが適切だったとは言えないものの、蒋済は『全体としては国家を担う人材である』と述べている」と評しています。
許靖は完璧ではありませんでしたが、美点を多く備えており、評にあるように、全体をみれば優れた部類の人物だったと言えます。
許靖の逃避行は、平和な時代であれば朝廷に仕え続け、穏当に良臣として名前を残したであろう人物が、辺境をさまようはめになって苦難に遭遇した経緯であり、戦乱が善人に何をもたらすのかを、如実に示す事例だと言えます。
許靖と許劭
許靖の従弟である許劭(許子将)もまた、人物の鑑定に優れていたことで知られ、特に曹操を「乱世の奸雄、治世の能臣」だと評したことが有名です。
この許劭は『万機論』において、許靖にからんで批判されています。
「許靖は国政を担う人材だが、許劭は彼を低く評価した。
もし本当に彼を尊ばなかったのなら、人を見る目がなかったことになる。
もし本当に彼の価値を知っていたとするなら、優れた人物を無視したことになる」
許劭はおそらく、許靖と仲が悪かったので、その能力は知っていても、推薦する気にはなれなかったのでしょう。
人物の鑑定は、個人の感情によっても左右され、かならずしも公正には行われないようです。