国家が安全になるか、危機に陥るかは、足下次第です。
そして民の命は、どのように事を執行するかにかかっています。
中華から異国に至るまで、希望をもって注目しています。
足下がこれらのことに責任を持たれるからには、昔の書物にある興隆と滅亡の道、栄光と屈辱の契機をご覧になる必要があります。
そして昔の悪事を忘れ、役人たちを寛容に扱い、人材ごとにその才能を見極められ、それぞれの官職にふさわしい人物を選ばれなければなりません。
もしも適任者を見いだしたなら、仇であっても必ず起用し、適任ではないのなら、親族であっても官位を授けてはなりません。
そうして社稷を安んじ、民を救ってくださいませ。
功業が成し遂げられましたならば、管弦のしらべにあわせて歌曲が奏でられ、勲功が金石に刻まれるでしょう。
どうか努力なさいますよう。
国家のために自重なさり、民のためにご自愛ください」
この手紙から、許靖が置かれていた苦境と、国家と政治に対する見識がうかがえます。
しかしながら、張翊は許靖に拒まれたことを根に持っており、許靖が出した手紙を探し出し、それらをすべて川の中に投げ込んでしまいました。
それでも手紙が伝わっているのは、許靖が元になったものを残しておいたからでしょうか。
逃避行に対する批判
三国志に注釈をつけた裴松之は、「許靖が会稽に身を寄せていたときは、ただの民間人だったのだから、孫策が攻め寄せてきたとしても、逃げる必要はなかったのではないか」と指摘しています。
「それなのに風土病が盛んな土地に入って老若男女を苦しめ、たくさんの憂いを経験したのは自業自得だし、智術に長けているとは言いがたい」と厳しく批判しました。
そして「呉に仕え、張鉱や張昭のように高官の地位を保つべきだったのではないか」とも書いています。
しかしこれは結果論であり、当時の孫策はまだ、袁術の配下という立場でした。
袁術は各地で自分の快楽のために、民衆から重税を絞りとり、苦しめていました。
さらには皇帝を名のって朝敵になるような男でしたので、その袁術が支配する地域からは逃れたたいと許靖が思うのは、さほど不自然なことではありません。
裴松之は呉があった地域の人でしたので、呉びいきの傾向があり、このような批判を述べたのだと思われます。
とは言え、いきなり危険な交州にまで逃げず、もう少し近いところで情勢を見守っていた方がよかった、というのはあるでしょう。
蜀に入国する
これからしばらく後、蜀の兄弟に連絡がついたのか、この地を支配する劉璋は、使者を派遣して許靖を招聘しました。
これによって、許靖はようやく交州から出ることができました。
許靖が蜀に入国すると、劉璋は巴郡や広漢の太守に任じています。
かつて都にいた時、許靖は巴郡太守への就任を断っていますが、苦難をへて、結局はこの地位につくことになったのでした。
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