鎌倉幕府・北条氏の政権はどうして不安定だったのか

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鎌倉幕府は日本において、初の武家政権を誕生させましたが、その政情には常に不安定はさがつきまといました。

鎌倉幕府を成立させる上で主要な役割を果たした源氏嫡流、梶原かじわら氏、比企ひき氏、畠山氏、和田氏、三浦氏、安達氏は、みないずれも滅亡しています。

定期的に大きな騒動が発生し、そのたびに多くの人が亡くなっています。

これは初期だけでなく、政権運営がある程度安定してからも続きました。

そして最後には、勝者であった北条氏もまた、後醍醐天皇の元に集まった武士たちによって、一族もろとも滅ぼされています。

『そして誰もいなくなった』と評したくなるような事態ですが、ではどうしてここまで鎌倉幕府は不安定な政権だったのか、そのあたりについて書いてみたいと思います。

源氏嫡流による政権の構築

まず、鎌倉幕府は源頼朝という、源氏嫡流を中心とする形で、政権が誕生しました。

源氏は、その祖先が天皇であり、皇室の血を引きながら、臣下の身分になった人々です。

そして各地の地方長官を勤めて実力を蓄え、自らも武装化して、各地の武士を率いるようになったことで、勢力を拡大していきました。

このため、皇室や朝廷とつながりを持ちつつ、各地で勃興する武士を束ねるという、新しい時代の秩序の安定を図る上では、実に適した存在だったのです。

頼朝個人の政治力が高かったこともあるでしょうが、そのような血統に生まれたということが、頼朝の政治力を高める基盤になっていました。

源氏は、もとの血脈が尊貴なものであるので、朝廷からすると、実力があり、朝廷と協調していく意志があるのであれば、高位につけても差し障りのない存在だったのです。

このため、平家や他の源氏を滅ぼし、随一の実力者となった頼朝は、征夷大将軍という高位を与えられ、名実ともに武家の頂点に立つことができたのでした。

このような経緯によって、1185年に鎌倉幕府は成立しています。

(征夷大将軍への就任は1192年ですが、各地の統治権を握った1185年が成立年だとされています)

源氏嫡流の滅亡

しかし1199年に頼朝が死去すると、その状況は暗転してしまいます。

後を継いだ嫡男の頼家は、まだ若かったこともあり、御家人(幕府直属の武士たち)たちをうまく統制していくことができず、強引な統治を行って反発を買うようになりました。

また、裁判を公正に行うことができず、これも御家人たちから嫌われる要因になります。

当時の裁判は、御家人たちの土地の権利をめぐって行われるものが主だったのですが、これを公正に行えないと、御家人たちは理不尽な理由で領地を取られてしまうことになりますので、死活問題であり、非常に重要な意味を持っていました。

頼朝はこれをさばくのがうまかったので、御家人たちから信頼されたのです。

逆に、頼家はこれをうまくこなせなかったので、為政者たる資格なし、と見られることになりました。

ついには、側近である梶原景時が幕府から追放され、討滅されるにいたり、御家人たちとの関係は極度に悪化します。

そして頼家は政争に敗れ、将軍職を解かれ、追放され、やがて暗殺されてしまいました。

この時に暗殺を実行させたのが、北条義時だったと言われています。

頼家は、義時にとっては甥でした。

北条氏の台頭

北条氏は、その一族である政子が頼朝の妻となっており、また、頼朝の弟である阿野全成ぜんじょうとも婚姻関係にありました。

元は伊豆の小豪族であるにすぎなかったのですが、源氏と多重に婚姻関係を結んだことで、鎌倉幕府の中で一定の勢力を得て、やがて実力を蓄えていきます。

そして政子と義時の姉弟が、高い政治力の持ち主だったために、他の有力な御家人たちを押しのけ、権力を掌握するようになっていきます。

とは言え、北条氏は元の身分が低いので、自らが将軍になって権力を独占することはできません。

朝廷は前例主義が強く、元の血統がよいものでなければ、高い地位を与えない、という性質を持っていました。

このため、北条氏は常に源氏や摂関家、皇族など、高貴な血統の人物を主としていただきつつ、その下で実権を握る、という形式を取らざるを得ませんでした。

このことが、鎌倉幕府の権力構造が、常に不安定さを抱える原因となります。

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