鎌倉幕府・北条氏の政権はどうして不安定だったのか

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北条氏の内紛

鎌倉時代の騒動は、北条氏対他の御家人勢力、という形が多かったのですが、北条氏内部での争いも、たびたび起きています。

1272年、元寇が発生していた際に、当時の執権である北条時宗が、北条氏の一族である名越氏を討伐し、自身の権力の強化を図った、という事件がありました。

またこの他には、1305年に得宗家の北条貞時が、連署れんしょ(政権参与)である北条時村を殺害する、という事件も発生しています。

得宗家は代々執権の地位を継承し、他の北条氏よりも一段上にあるとされた、鎌倉幕府の支配者の家柄です。

この事件がどうして発生したのかは不明なのですが、邪魔になるなら殺害して排除すればよい、という、北条氏が初期から取っていた方策が、その後もずっと続けられ、時には身内にも向けられていたことが表されています。

北条氏の滅亡

このように、多くの騒動を繰り返しながらも、北条氏はなんとか政権の運営を続けてきましたが、それも潰える時が来ました。

最後の得宗家の当主になったのは、北条高時たかときです。

この人物は暗愚だったとされていますが、何よりも病弱で、まともに政務を取れるだけの体力がなかったようです。

そのような人物が当主にすえられたことに、北条氏の衰退が見て取れます。

このため、実権は御内人である長崎円喜えんき(平頼綱の一族)が握るようになり、以前と同じく、北条氏の家来による統治に対する不満が募っていきます。

そうした中で、後醍醐天皇は鎌倉幕府の打倒を決意し、そのために画策し続けました。

たびたび敗れ、廃位され、京から追放されることもありましたが、それに屈さずに戦い続けるうちに、楠木正成をはじめとして、後醍醐天皇に与する武士が増えていきます。

そして1333年になると、後醍醐天皇に味方すると決めた新田義貞が、兵を率いて鎌倉に攻め込み、その守りを打ち砕きました。

また、足利高氏も畿内で兵を上げ、鎌倉幕府の京における拠点である、六波羅ろくはら探題を滅ぼしています。

こうして鎌倉幕府の権力基盤は崩壊し、北条氏は滅亡することになりました。

このようにして情勢が覆ったのは、権威において、将軍や北条氏よりも上位にある天皇が、自ら鎌倉幕府を打倒すると決意を示したことが、まず原因の一つとしてあげられます。

それに対し、北条氏の頂点に君臨する得宗家は、病弱な人物が当主になっていたので、積極的に指揮を取って反撃することが難しくなっており、統治力も低下していました。

代わって実権を握る長崎円喜は、北条氏の家来でしかないので、御家人たちに対する影響力は低くなります。

このような状況が合わさり、かねてよりの、御家人たちの北条氏への反発に火がつき、ついには北条氏はその権力を維持できなくなったのでした。

北条氏は鎌倉での戦いに敗れると、東勝とうしょう寺に追い詰められました。

そこで一族がそろって自害をし、その数は家来を含めて800人にもなったと言われています。

こうして鎌倉幕府は創設以来、およそ150年ほどで滅亡しました。

ちなみに東勝寺は、北条泰時が創建した寺でしたが、結果として、一族の終焉の地となっています。

鎌倉時代の騒動一覧

以下に、鎌倉時代に起きた騒動、政治闘争を一覧にしました。

1199年 梶原景時の変
梶原景時とその一族が滅亡

1203年 比企能員よしかずの変
比企能員とその一族が滅亡

1205年 畠山重忠の乱
畠山重忠とその一族が滅亡

1213年 和田合戦
和田義盛とその一族が滅亡

1219年 実朝暗殺
源実朝が公暁に殺害され、源氏嫡流が滅亡

1221年 承久の乱
後鳥羽上皇が鎌倉方に敗北 武家の優位性の確立

1247年 宝治合戦
三浦氏が滅亡

1272年 二月騒動
名越氏(北条氏の一族)が得宗家に討たれる

1285年 霜月騒動
安達氏が滅亡

1305年 嘉元の乱
北条宗方(連署)が討たれる

1333年 東勝寺合戦
北条氏が滅亡

北条氏の統治とは

これまで述べてきたように、北条氏は政治闘争に勝ち抜くことにより、元は小豪族であるに過ぎなかったのに、大きな権力を得ることに成功しました。

しかし出自の低さゆえに権威が乏しく、将軍位などは得られず、立場が安定せず、政権を握っている間、常に闘争し続けることになっています。

他の氏族をおおむね排除した後も、家来の勢力の伸長によっておびやかされたり、北条氏同士での抗争も発生するなどしており、安定しきることはありませんでした。

一方においては、正当性が乏しいからこそ、その能力によって統治者たる地位にふさわしいことを実証しなければならない、という事情もあったことから、幾人かの優れた人物を輩出してもいます。

泰時をはじめ、何人かの執権は、善政を行ったとして評価されました。

徳川家康は、このような鎌倉幕府の歴史を研究し、徳川幕府をどうすれば安定させることができるかを考えた、と言われています。

そして、徳川家が断絶しないために御三家を設けたり、譜代大名たちが合議によって政策を決定する、という仕組みを作ることにより、幕府の統治体制がゆるがないようにと配慮しました。

これにより、徳川氏は260年にも渡って続く、長期政権の樹立に成功します。

この間、鎌倉時代のように、武家同士による大規模な闘争が発生することはありませんでした。

そういった意味では、北条氏の苦闘は、平和で安定した武家政権を誕生させるための、下地になったのだと見ることもできます。