鎌倉幕府・北条氏の政権はどうして不安定だったのか

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源氏嫡流の滅亡

頼家の後は、その弟の実朝さねともが、北条時政(政子らの父)、および政子と義時らに擁立され、3代目の将軍になりました。

この時期から、北条氏は他の御家人に対する攻撃性をあらわにし、比企氏、畠山氏、和田氏らの有力な氏族を、次々と滅ぼしていきます。

そして父・時政をも追放して実権を握った義時が、実質的に鎌倉幕府を支配するようになりました。

こうして実朝を将軍としていただきつつ、政子と義時が幕府を取り仕切る、という体制が構築され、一応の政情の安定を見ることになります。

しかし実朝は1219年に、頼家の子である公暁くぎょうによって「父の仇だ」として殺害されてしまいます。

そしてこの公暁もまた討たれ、これによって源氏の嫡流は絶えてしまいました。

こうして鎌倉幕府は支柱を失い、危機的な状況に置かれることになります。

その権力を正当化する存在である源氏、将軍になりうる血統の持ち主を失ってしまったからです。

承久の乱

ひとまず、政子・義時らは、源氏と血縁がある、藤原氏の一族を将軍候補として迎えることで、幕府の存続をはかります。

この時の対応からも、北条氏自身はいくら実権を握ろうとも、名実ともに頂点に立つことはできない、という問題点が浮かび上がります。

このような状況になると、朝廷を支配していた後鳥羽上皇は、幕府から実権を取り戻す好機だととらえ、自分に与する武士たちを集めました。

そして義時を朝敵に認定し、これを討伐しようとします。

これが1221年に発生した「承久じょうきゅうの乱」です。

この時に、政子が頼朝から受けた恩を思い出してください、と演説することで、動揺する御家人たちをつなぎとめました。

頼朝が幕府を作り、御家人たちの土地の裁定権を確保するまでの間、武家の土地の所有権は、脆弱なものでした。

支配権を持っていたのは、公家が中心の朝廷でしたので、その命令によって、理不尽な理由で土地を取り上げられてしまうことも、珍しくなかったのです。

頼朝がそれを変え、幕府の命令なくしては、武家が土地を奪われることがないようにしました。

つまり頼朝は武家の権利の保護者となったのであり、それゆえに強く支持を受けていたのです。

頼朝の恩とは、武家の土地が守られる権利のことであり、後鳥羽上皇が勝利すれば、それは朝廷に取り戻され、失われてしまいます。

そんなことになってもいいのですか? それが嫌なら、団結して戦いましょう、というのが、政子の呼びかけだったのです。

これには御家人たちが賛同するのも当然であり、鎌倉方は19万とも言われるほどの大軍となり、後鳥羽上皇方を圧倒しました。

こうして御家人の連合が、朝廷にまっこうから勝利し、その優位性が確立されます。

その立役者になったのが政子で、幕府における北条氏の優位性もまた、より高まっていきました。

泰時の統治

しかし、やがて義時が急死します。

これは病だったとも、暗殺だったとも言われていますが、真相は不明です。

すると、義時の子である泰時が、代わって執権しっけんという地位につきます。

北条泰時

【北条氏中興の祖と言われる泰時】

これは将軍を補佐して幕府を取り仕切る地位でしたが、源氏なきあと、将軍は飾り物でしたので、実質的な鎌倉幕府の支配者だと言えます。

この泰時は温厚な上に、政治力も高い人物でした。

それまでの幕府は、独裁色の強い政治体制を取っていましたが、泰時は13人による合議制に切り替え、他の有力御家人たちと協調し、政情の安定化を図ります。

また、『御成敗ごせいばい式目』という法律を制定し、どのような基準にそって統治を行い、御家人の土地争いを解決するのか、その方針を明確にしました。

この法律は理にかなっており、優れたものだとして高く評価されており、この後も長く、武家統治の基本理念として機能していくことになります。

政子や義時は、乱世に対応するために、謀略もいとわない、殺伐とした面を多量に備えていましたが、泰時はそのような手段は用いず、穏当に世を治めていくことを目指したのです。

これによって、幕府の統治はかなりの安定を見せることになりました。

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