黄権 劉備に仕えて重用されるも、魏に降伏した将軍

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呉への遠征に反対する

漢中で曹操に勝利した後、劉備は漢中王の地位につきましたが、益州の牧も兼任し続け、黄権を益州の治中従事ちちゅうじゅうじ(州牧補佐)に任命します。

そして221年になると、蜀の皇帝に即位しましたが、黄権はそれを勧める上奏文に連名しました。

劉備は皇帝になるとすぐに、関羽を殺害し、荊州を奪った呉を討伐しようとします。

この時に黄権は、劉備をいさめました。

「呉の者たちは勇敢で、戦いに優れています。

そして蜀の水軍は、川の流れに沿って下っていきますが、このため、進軍するのはたやすいのですが、撤退をするのは難しくなります。

どうか私を先陣として、敵の力を試させてください。

陛下は後詰めとなられるのがよろしいでしょう」

黄権は無理に荊州に攻めこめば、敗北をするだろうと見越しており、自分が率いる軍勢のみで戦うことで、損害を抑えようと考えたのでしょう。

まったく出兵しないと劉備が納得しないでしょうから、このような妥協案を提示したのだと思われます。

劉備が大敗し、黄権は魏に降伏する

しかし劉備はこの意見を取り上げず、黄権を鎮北将軍に任命し、江北(長江の北側)の諸軍を指揮させます。

そして劉備の出陣によって生じる隙につけこんでくるかもしれない、魏軍への備えとしました。

方面司令官となったわけですので、黄権への信頼の大きさが感じられます。

一方で、劉備自身は江南に出陣して荊州を攻撃しましたが、戦線が伸びきったところに、呉の将軍・陸遜りくそんが流れにそって襲来し、軍営の囲いを断ち切り、攻撃をしかけてきます。

すると蜀の南軍は大敗を喫し、劉備は永安に撤退しました。

このため、江北から蜀へとつながる道路が遮断されてしまい、黄権は撤退することができなくなります。

なのでやむなく、黄権は配下の軍勢を引き連れ、魏に降伏しました。

黄権の意見は常に的確なものでしたが、主君が取り上げないことが多く、そのために黄権は、苦境に追い込まれることが多かったようです。

劉備は黄権の妻子の処罰を禁じる

黄権は形の上では裏切り者になりましたので、蜀の官吏が法を盾にして、黄権の妻子を逮捕したいと申し出ました。

これに対して劉備は「わしが黄権を裏切ったのであって、黄権がわしを裏切ったのではない」と答え、以前の通りに待遇しています。

この劉備の措置に対し、三国志に注釈をつけた裴松之はいしょうしは、次のように評しています。

「漢の武帝は不確かな言葉を取り上げ、李陵りりょうの一族を滅ぼした。

劉備は検察の意見を退け、黄権の家族を許した。

二人の君主の得たものと、失ったものの差は非常に大きい。

『詩経』に「この君子(臣下)を楽しませ、なんじの子孫を安んじ養わん」とあるが、これこそ劉備の行為に当たると言える」

武帝と劉備

前漢の武帝は、臣下の李陵を匈奴きょうどという異民族と戦わせました。

そして李陵は奮戦したものの、やがて力つき、敗北して捕虜となってしまいます。

すると「李陵は匈奴に寝返った」と吹き込む者がいたので、武帝は李陵の家族を処刑します。

これに史家の司馬遷しばせんが反対したところ、彼もまた処罰され、宦官かんがんに落とされました。

しかし結局、李陵が寝返ったというのは誤報だったことがわかります。

武帝は無実の者を処刑してしまったことになり、評判を悪くしました。

それに比べて劉備の対応は、自分の非を認め、臣下を責めない立派なものだったと、裴松之は評したのでした。

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