曹丕に高く評価される
黄権が魏に到着すると、皇帝である曹丕が、黄権に質問をしました。
「君が逆臣の立場を捨て、善良な臣に立ち返ったのは、陳平や韓信の後に続こうとしたからか?」
陳平や韓信は、初めは項羽に仕えていたのですが、やがて劉邦に鞍替えし、前漢の建国に貢献した人物たちです。
このため、曹丕は自分を劉邦になぞらえ、黄権が陳平らのまねをしたのかとたずねたのです。
これに対し、黄権は次のように答えました。
「私は劉主(劉備)から過分の待遇を受けており、このために呉に降伏することはできず、蜀に帰ろうにも道が遮断されており、ゆえに魏に帰順したのです。
敗軍の将は死を免れることができれば、それだけで幸運です。
どうして古人を慕うことなどできましょう」
このように、黄権は旧主を貶めず、自らを低くし、忠節を守って降伏の意図を説明しました。
曹丕は黄権のこの答えに感心し、重く用いることにします。
黄権は鎮南将軍に任命され、育陽候の爵位を与えられました。
さらに侍中の官位を加えられ、曹丕の公用車に同乗する立場をも得ています。
降伏者を厚遇するのは、さらなる降伏者を増やすために行われる策ではありますが、黄権の場合は、その人格が評価されたために、特に重用されたのだと思われます。
喪を発表せず
魏に降伏していた他の蜀人の中に、黄権の妻子が処刑された、と言い出す者がいました。
黄権は、それは偽りだと判断し、すぐに喪を発表することはしませんでした。
すると曹丕が詔を下し、喪を発表するようにと命じました。
そうすれば、劉備の非を責めることができるからです。
すると黄権は「私と劉備・諸葛亮とは、誠実さをもって信頼をかわした仲ですので、私の本心を承知しているはずです。
情報は疑わしいもので、まだ事実だとは決まっていません。
どうか続報が届くのを待たせてください」
そのうちに詳細な情報が伝わると、やはり黄権が考えた通りだということがわかりました。
このように黄権と劉備たちは、離れていても心が通じ合っていたようです。
そして裴松之が言う通り、この対応によって劉備が得た評価は、当時に対しても、後世に対しても、大きかったのでした。
しばらくすると、劉備が薨去したという知らせが届き、魏の群臣はみな祝賀を述べましたか、黄権はこれに加わりませんでした。
曹丕は黄権を試す
曹丕は、黄権が優れた器量の持ち主だと見なしていましたが、ある時、黄権を驚かせ、試してやろうと考えました。
このため、側近を使いに出し、黄権に出頭せよとの勅命を下します。
そして黄権が宮殿に到着するまでの間に、催促する使者を何人も送り出しました。
この結果、道路に乗った使者が駆け回り、道路上で入り乱れるありさまとなります。
属官たちはみな、その様子を見て肝をつぶしましたが、黄権の様子や顔色は、普段と変わるところがありませんでした。
これによって曹丕にさらに気に入られ、後に益州刺史(長官)を兼任し、河南尹(都知事)の地位を占めるようにもなります。
司馬懿からも評価される
大将軍の地位にあった司馬懿もまた、黄権の人柄を高く評価しました。
あるとき司馬懿は黄権に「蜀には、君のような人物は何人いるのかね」とたずねます。
黄権は笑いながら「殿のご愛顧がそれほど深いとは、思いもよりませんでした」と答えました。
司馬懿はそれから諸葛亮に手紙を送り「黄公衡(権)は気持ちのいい男です。いつもあなたを賛美し、話題にしています」と伝えています。
位を高めた後、逝去する
魏の景初三年、蜀の延熙二年(239年)に、黄権は車騎将軍・儀同三司に昇進しました。
車騎将軍は大将軍や驃騎将軍に次ぐ第三位の将軍位で、儀同三司は大臣と同格であることを表す称号です。
降伏者でありながら、ここまでの地位に昇ったことから、魏から黄権への評価が、非常に高かったことがうかがえます。
貢献はこの待遇を受けた後、240年に逝去し、景候と諡をされています。
子の黄邕が後を継ぎましたが、彼には子供がいなかったので、以後は爵位が継承されませんでした。
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