荊州の情勢に的確な見通しを立てる
袁氏を討って中原を制した曹操は、残る地域を制圧して天下を統一するため、208年に荊州に攻めこみました。
この時、劉備が荊州北部に駐屯していましたが、領主の劉琮がはやばやと曹操に降伏したため、南に逃亡しています。
そして呉の孫権を頼ると、群臣たちは孫権は劉備を受け入れず、殺害するだろうと予測しました。
しかし程昱はこれとは違った意見を述べます。
「孫権の勢力はまだ盤石ではなく、周囲から恐れられるほどのものではない。
一方で曹公は天下に敵なしで、さらに荊州を奪ったことで、その威勢は呉にまでとどろいているだろう。
このような情勢なので、孫権は一人で曹公に敵対することはできない。
劉備には英名があり、関羽や張飛といった一万の兵にも匹敵する武将を抱えている。
だから孫権は彼らに支援を求め、我々に抵抗してくるだろう。
しかし困難が去れば、彼らは分裂する。
劉備はこの状況を利用して勢力を伸ばし、もう倒すことはできなくなるだろう」
程昱が予想した通り、孫権は劉備と同盟を結んで抵抗し、赤壁で曹操軍を撃退しました。
その後、劉備はこの状況を利用して荊州南部と益州を制し、やがて蜀を建国するに至ります。
このように、全ては程昱の予想通りに展開し、天下は三つに分かれたのでした。
程昱は内心、あのとき劉備を始末していればこんなことにはならなかったものを、と嘆いていたことでしょう。
労をねぎらわれ、兵士を返上する
荊州では失敗したものの、曹操はその後も各地の平定を進め、さらに勢力を伸ばしました。
すると曹操は程昱の長年の貢献を称賛し、「兗州で危機に陥った時、君の助けがなかったら、わしはここまでこられなかっただろう」と、程昱の背中を叩きながら、親しく語りかけました。
程昱の一門の人たちは、これを名誉なことだとして喜び、大宴会を開いて祝います。
すると程昱は、「充足を知る者は、恥辱を受けないという。わしは引退するべき時が来たようじゃ」と言って兵権を返上し、しばらくは外出を控えました。
程昱はこの頃、七十才を越えていましたので、称賛を受けているうちに身を引くのがよいだろうと、判断したのでしょう。
程昱はこのように、処世に関しても賢明な人物だったのでした。
曹丕に助言をする
と言っても、程昱は自ら兵を率いることがなくなっただけで、以後も曹操と、その子の曹丕に仕えています。
211年に曹操が馬超を討伐するため、西域に出陣すると、太子の曹丕が留守を守ることになりました。
この時に程昱は参軍となり、曹丕の補佐をしています。
やがて河間で田銀や蘇伯らが反乱を起こしたので、曹丕は将軍の賈信を派遣して討伐させました。
すると賊のうち千余人が降伏を申し入れます。
この時に曹丕の臣下たちは、旧法に従って降伏した者たちを処刑するのがよいでしょう、と意見を述べます。
程昱は反対する
これに程昱は反対します。
「降伏した者を死刑にするのは、そもそも攻撃を受け、包囲される前に服従した方がよいと思わせるために作られた法です。
これによって、戦わずして敵を従わせようとしたのです。
戦乱の時代ゆえの制度であり、実際に張燕は、戦わずして服従しました。
しかし、すでに天下は平定されつつあり、しかも反乱が起きたのは領土内のことですから、彼らを処刑しても、敵対勢力に対し威嚇の効果をあげることはできません。
そして降伏者を処刑したら、今後反乱が起きた際に、彼らは死に物狂いで最後まで抵抗するようになり、鎮圧するのが難しくなります。
ですので、私は処刑してはならぬと考えます。
もし処刑するにしても、曹公にそのことを伝え、事前に承認を得た方がよいでしょう」
すると「軍事では独断専行が許されるのだから、曹公の判断を仰ぐ必要はない」と述べる者がいました。
程昱がこれに反論しないでいると、曹丕は奥に下がり、そこで程昱と二人だけで話をします。
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