曹操に高く評価される
曹丕が程昱に「まだ君には言い足りないことがあるのではないか」とたずねます。
すると程昱は「軍において独断専行が許されるのは、緊急性の高い要件を処理するのに必要だと、認められているからです。
しかし賊はすでに賈信の手中にあり、急いで判断を下す必要はありません。
ですので、私は将軍(曹丕)がこの件を性急に処理するべきではないと思います」と言いました。
すると曹丕は「君の言うことはもっともだ」と述べ、さっそく曹操に事態を知らせました。
すると曹操は程昱が考えた通り、処刑しないようにと伝えてきます。
曹操は討伐からの帰還後、これらのいきさつを知ると、上機嫌になって程昱に言いました。
「君は軍略に明るいだけでなく、他人の親子の仲もうまくさばけるようだ」
こうして程昱は、ますます曹操からの信任が厚くなり、曹丕からも高く評価されるようになります。
さらに出世してから死去する
程昱は剛情な性格だったため、他の臣下たちと衝突することが多く、このために謀反を企んでいる、などと曹操に告げ口をされたことがありました。
しかし程昱を信頼している曹操はこれを取り上げず、ますます程昱を厚遇します。
やがて魏が建国されると、衛尉となって、宮殿を守る役目に就きました。
曹操や曹丕の身辺を守る立場ですので、相当な信任を受けていたことがうかがえます。
その後、同僚と威儀を争って一時免職となりましたが、220年に曹丕が皇帝になると復帰し、安郷候に昇進しました。
そして領邑を三百戸加増され、合計で八百戸となっています。
曹丕はさらに、程昱を宰相に任命しようとしますが、その矢先に逝去しました。
享年は79でした。
曹丕は大変に悲しんで涙を流し、程昱に車騎将軍を追贈しています。
そして粛候と諡されました。
子の程武が後を継ぎ、程克、程良と地位が継承されていっています。
233年には、夏侯惇や曹仁と並んで曹操の霊廟に祭られており、建国の功臣として、その後も高く評価されていたことがうかがえます。
程昱評
三国志の著者・陳寿は程昱を郭嘉らと並べ、次のように評しています。
「程昱らは才能・知略に優れた奇士だった。清廉で徳があった荀攸とは、人格面では異なるが、優れたはかりごとを立てた点では、彼らは同等であると言える」
曹操の元には優れた智謀を備えた人材が多数いましたが、程昱もそのうちの一人だったのだと言えます。
その中で、程昱の特徴を挙げるとすると、50代になるまで主君を持たず、仕えるべき相手が世に出てくるのを待っていた点があげられます。
そして曹操を見いだすと、忠実に仕えて最大の危機を乗り切るのに貢献したことから、高く評価され、称賛を受けることになりました。
太陽を捧げる夢の逸話の通り、王者を見いだし、その覇道に貢献するための生涯だったのだと言えます。