曹操の招きに応じる
やがて劉岱は、兗州に侵入した黄巾賊の残党を討とうとして、返り討ちにあって死去しました。
すると兗州は、東郡太守だった曹操が刺史に昇進し、統治するようになります。
東郡は程昱の所在地でしたので、曹操は程昱の評判を知っており、配下になるように勧誘してきました。
すると程昱は、今度はそれにあっさりと応じます。
これを知った郷里の人々は、「程昱の行動は、先と今とで矛盾している」と批判します。
程昱は笑って取り合わず、曹操の元に向かいました。
はっきりとは言いませんでしたが、劉岱と曹操では器が違う、と程昱は思っていたのでしょう。
これは192年のことでしたが、程昱はすでに51才になっていました。
なので、遅咲きの人物だったということになります。
【程昱を招いた曹操 程昱は彼が王者になるとみなしていた】
曹操に仕え、反乱に対処する
曹操は程昱と会って話をすると、その智謀を評価し、ひとまず寿張の県令代行に任命しました。
やがて曹操は、父を徐州の盗賊に殺害されたため、その復讐のために討伐に向かいます。
するとその際に、配下の陳宮が曹操を裏切り、流浪していた呂布を兗州に引き込みました。
程昱はこの時、荀彧とともに鄄城で留守を守っており、この事態に最前線で対処することになりました。
荀彧とともに残る城を守る
陳宮とともに、曹操が頼みにしていた張邈までもが裏切ったため、兗州のほとんどの地域が呂布になびいてしまいました。
曹操の側に残ったのは、鄄城と范、そして程昱の郷里である東阿の三県のみとなります。
やがて呂布の軍から降伏してきた者が、陳宮が東阿を自ら攻め、配下の氾疑に范を取らせる計画を立てていると知らせたので、鄄城の官吏も民も、これを大いに恐れました。
荀彧はこの時、程昱に「兗州でこちらに残ったのは、三城しかない。
陳宮らの攻撃に対抗するには、この三城が連携して立ち向かわなければならないだろう。
君は民に人望があるから、范に戻って彼らの気持ちをまとめてくれ」と依頼します。
こういった事態になると、地元の出身である程昱の存在価値が大きくなったのでした。
靳允を説得する
程昱はこれを引き受け、范を訪れると、県令の靳允を説得にかかります。
「あなたは家族を呂布に捕らえられてしまったので、大変に心配をしていることでしょう。
陳宮が反旗をひるがえし、百城がこれに従い、大きな勢力になったように見えます。
しかし呂布は粗暴で親しむ者は少なく、剛情で無礼で、匹夫に過ぎません。
陳宮もなりゆきで呂布を主にしているに過ぎず、彼らの仲はうまくいかないでしょう。
兵力が多くとも、最終的には失敗するに決まっています。
一方で曹操どのは不世出の知略を具え、おそらくは天が下されたお方です。
君があくまで范を固守し、私が東阿を守り抜けば、非常に大きな功績を立てることになります。
忠節に外れて悪事に加担し、母子ともに滅びるのと、どちらがよいでしょうか。
よくそのことを考慮していただきたい」
このように程昱が述べると、靳允は程昱に同意し、涙を流して「私は決して裏切りません」と返答しました。
この頃には、氾疑がすでに攻めこんで来ていましたので、靳允は彼を迎えるふりをしておびき寄せ、隠しておいた兵士に命じて刺殺させます。
そして城に戻ると、兵を集めて守りを固めたので、氾が呂布勢力の手に落ちることはありませんでした。
東阿も守り切る
続いて、程昱は東阿を守るため、別動隊を派遣して倉亭津の橋を断ち切らせました。
このため、陳宮は東阿に侵入することができなくなります。
そして程昱が東阿に到着すると、すでに県令の棗祇が官民を統制し、守りを固めていました。
程昱は、さらに兗州従事(曹操の副官)の薛悌と協議し、三城を守り抜いて曹操の帰還まで持ちこたえます。
曹操は兗州に戻ってくると、程昱の手をとり、「君の力がなければ、わしは帰るところを失っていただろう」と述べ、大変に感謝をしました。
こうして程昱は、曹操に訪れた大きな危機を救ったのでした。
曹操は程昱の功績に報いるため、東平の相(統治者)に任命し、軍勢を与えて氾に駐屯させています。
【次のページに続く▼】