呂布を撃破して長安を占拠する
李傕らは長安を守っていた呂布を攻撃し、10日ほどでこれを撃破します。
そして董卓暗殺の首謀者だった王允を討ち取り、献帝の身柄をその手に握りました。
しかし彼らはいずれも、元は董卓配下の一将校だった者たちであるに過ぎず、天下を差配するだけの見識も能力も、備えてはいませんでした。
彼らは王允とその一党のみならず、長安の人々を老若かかわらず捕縛し、殺戮したため、死体があたりに散乱する事態となります。
このようにして、賈詡の策によって、後漢の混迷はますます深まっていくことになったのでした。
賈詡への批判
賈詡がこうした事態を作り出したことに対し、三国志に注釈をつけた裴松之が批判をしています。
「悪の根本となっていた董卓の首がさらされ、天地がようやく明るくなろうとしていた。
それなのに、災いを重ねて結び、毒をまき散らして国を衰退させ、民に周の末期と同じ過酷さを体験させることになったのは、賈詡の片言のせいではないだろうか。
賈詡の罪の、なんと大きいことよ。
古くから動乱の兆しとなったもので、これほどひどいものは、かつてあったことがない」
このようにして、李確らに長安の攻撃を勧めたことが、賈詡の評価を下げる原因となっています。
一方で賈詡からすれば、自分が生き延びるために、やらざるを得ないことだったわけですが。
高位を辞退しつつ、政務を担当する
李傕らはそれぞれに高官の地位に昇り、賈詡は左馮翊(長安周辺の行政長官)になりました。
李確らは賈詡の功績をかんがみて諸侯に封じようとしましたが、賈詡は「あれは生命を救うための計略で、功績などではありません」と言って、固辞しています。
また、尚書僕射に任じられようとしましたが、賈詡は「尚書僕射は諸官を束ねる師長であり、天下の人々の希望を担う地位です。
私には名声がなく、重厚さにも欠けていますので、人々を心服させることはできません。
たとえ私が栄誉と利益に暗かったとしても、国家をどうするべきかは考えます」
このようにして、賈詡は成功をおさめても浮つかず、謙虚に立ち回っています。
賈詡の知力からして、李確らの政権が長く続かないことはわかっており、そこで高い地位を得るべきではないと、わきまえていたのかもしれません。
尚書に任命され、政務を取り仕切る
賈詡は改めて尚書に任命され、官吏の選抜や登用を担当し、乱れていた政治を匡正していきました。
李傕らは賈詡を親任したものの、そのようにふるまう賈詡をはばかるようにもなりました。
賈詡は董卓の旧部下たちの中では、唯一まともに政務をとれる人間であり、そのために軍事のことしかわからない他の者たちからは、浮いた存在となっていたのでしょう。

李確らの対立を抑える
その李傕と郭汜らは権力を握ると、やがて主導権を巡って対立するようになり、たびたび戦いをはじめようとします。
賈詡はそのたびに「道理にもとります」として咎めましたが、これによってひとまずは争いが回避されていました。
たまたまこの時期に母が亡くなったため、賈詡は官を辞し、光禄大夫(皇帝の側近)の位を授けられています。
これによって、実務から離れた立場に移ったのでした。
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