曹操が敗北する
しかし曹操はこれを聞き入れず、大軍を率いて孫権の討伐に向かいました。
すると孫権と劉備が同盟を結んで立ち向かって来たため、赤壁の戦いで敗北し、大きな損失を負ってしまいました。
元より疫病が軍中で流行していたため、曹操は荊州全土を維持できなくなり、曹仁を残して撤退します。
その曹仁も周瑜と劉備に打ち破られ、結局のところ、曹操は荊州の北部を抑えるに留まり、天下統一を達成する機会を逃してしまいました。
この結果からすると、賈詡の意見の方が正しかったことになります。
裴松之の批判
この時の賈詡の意見を、裴松之が批判しています。
当時、涼州の地では馬超らが中原を狙っていたので、曹操が荊州にゆっくりと居座っているわけにはいかず、賈詡の策は実行できないものだった、としています。
しかし、馬超が本格的に反乱を計画したのは、曹操が漢中討伐のために西に軍勢を向かわせることがわかり、それが涼州の軍閥を刺激したことがきっかけとなっています。
この曹操の出撃が、「実は自分たちを討伐するためのものではないか」と涼州の諸将が疑うようになったことで、馬超の反乱への呼びかけが通りやすくなったのです。
また、涼州の軍閥が反抗をしたのは、曹操が赤壁で敗れ、勢威が落ちていたことも影響していたでしょう。
そのあたりの事情からすると、曹操が孫権らがつけいることができない規模の軍勢を荊州に駐屯させ、疫病が治まるのを待ち、荊州の統治を安定させることを優先させる、という選択肢を取っていたならば、曹操の勢力はより大きく、安定したものになっていたと考えられます。
馬超や韓遂と対戦する
211年になると、馬超は韓遂と手を結んで反乱を起こし、渭水のあたり(長安付近)へと進軍してきました。
曹操はこれを迎え討ちますが、渡河の際に馬超の強襲を受け、命を落としそうになるなど、序盤は苦戦しています。
やがて戦況が膠着してくると、和睦の交渉がなされましたが、馬超らは土地の割譲と人質を要求してきました。
賈詡はこの時に、承諾するふりをして、馬超たちに計略をしかけることを提案します。
曹操が賈詡に計略の内容を質問すると、「彼らを分離させましょう」と賈詡は答えました。
曹操は「わかった」と言ってうなずき、賈詡の策を採用することにします。
賈詡の策
韓遂が曹操との会談を要求してくると、両者は古くからの知り合いだったので、馬を交えてしばらく語り合いました。
軍事には触れず、ただ都での昔話などに興じ、手を打って笑い、歓談します。
それから韓遂が陣営に戻ると、馬超らは韓遂に、曹操が何と言っていたのかをたずねましたが、韓遂が「大事なことは何も言わなかった」と答えたので、馬超らは韓遂を疑うようになります。
これこそが、賈詡がしかけた策略の発端でした。
書簡を送って疑いを深める
これとは別の日に、曹操は韓遂に書簡を送りましたが、わざと消したり書き改めた箇所を作り、韓遂が都合の悪い内容を隠したかのように見せかけました。
これを見た馬超らは、韓遂は曹操と内通したのではないかと疑いを深め、涼州陣営は内部から崩壊していきます。
頃合いを見て、曹操が精鋭の騎兵隊を動かし、涼州の軍勢を挟み撃ちにさせます。
すると連携を欠くようになっていた馬超らは、もろくも撃破されました。
何人かの武将が討ち取られ、馬超と韓遂は涼州に逃亡し、反乱軍は壊滅状態となります。
このようにして、賈詡のしかけた計略によって、馬超らは敗れ去ったのでした。
曹丕の相談を受ける
この頃、曹操の子・曹丕は五官中郎将(近衛兵の指揮官)の地位にありましたが、弟の曹植の方が才能が優れていたため、こちらの評判が高くなっていきました。
このため、臣下たちは曹丕派と曹植派に別れて争いを始め、曹操の後継者の地位を奪おうとして、争うようになります。
これに危機を感じた曹丕は人を送り、賈詡に自分の地位を固めるための方策をたずねさせました。
賈詡は「願わくば、将軍(曹丕)は徳を尊重され、無官の人物のように謙虚にふるまってください。
朝から晩まで怠らず、子としての正しい道を踏み外さないようになされませ。
ひたすらこれに努めれば、うまくいくでしょう」と答えました。
曹丕はこれを聞くと、意見に従って自らの修養に努めます。
するとやがて、曹植の品行の悪さが目立つようになり、身を修めていた曹丕の評判が高まっていきました。
曹植は放埒な性格で、行儀が悪く、その点が彼の弱点でした。
なので曹丕は対象的に品行を良くすることで、才能の不足を補ったのです。
賈詡はこのような流れになることを見越した上で、曹丕に助言をしたのでしょう。
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