賈詡 張繡や曹操に仕えて活躍した智謀の士

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曹丕の諮問を受ける

やがて曹丕は賈詡に「私は命令に従わない者たちを討伐し、天下を統一したいと思う。

呉と蜀と、どちらを先にした方がよいだろうか?」とたずねました。

賈詡は次のように答えます。

「攻略を目的とする者は兵権を重視し、根本を立てる者は徳によって教化することを重視します。

陛下は期に応じて禅譲を受けられ、この国の果てまで支配されています。

もしも文徳によって彼らを安んじつつ、変事が起こるのをお待ちになれば、これらを平定するのは困難ではありません。

呉や蜀は小国であるとは言え、険阻けんそな山河をよりどころにしています。

劉備は優れた才能を備え、諸葛亮がよく国を治めています。

孫権は虚実を見抜く目を持ち、陸遜が軍事を司っています。

蜀は天険をたのみとして要害の守りを固め、呉は江湖に船団を配置しており、どちらも簡単に攻略することはできません。

用兵の道は、先に戦略的に優位になってから、戦いを始めるのが要点です。

敵の戦力を推し量り、将の器量を議論し、勝てると判断してから行動を起こすがゆえに、失敗をせずにすむのです。

私が密かに群臣を見わたしたところ、劉備や孫権に対抗できる者はいません。

このため、たとえ天下の兵をもって攻撃をしても、万全の状態であるとは言えません。

昔、しゅん干戚かんせきの舞(盾と斧などの武器を持って舞う、武の舞のこと)によって、有苗ゆうびょう族を帰服させました。

今は文を先にし、武を後にするのがよいと考えます」

しかし曹丕はこの意見を入れず、江陵こうりょうの戦役を起こしましたが、敗北して多数の士卒が戦死してしまいました。

曹操亡き後の魏には、劉備や孫権を打倒できるだけの人材はおらず、それが三国時代が長引いた原因となったようです。

やがて死去する

賈詡は223年に逝去し、しゅく候と諡されました。

享年は77でした。

子の賈繆が後を継ぎ、各地の郡守を歴任しています。

賈繆が死去するとその子の賈が後を継ぎ、晋代になってから散騎常侍・護軍将軍に立身しました。

その子や一族はみな高官にのぼり、そろって晋王朝で栄えています。

賈詡評

三国志の著者・陳寿は賈詡を荀攸と並べて評しています。

「荀攸と賈詡は計略に間違いがなく、事態の変化に対処することに練達していた。

張良・陳平に次ぐ人物であろうか」

これに対し裴松之は、「荀攸と賈詡では人格に大きな隔たりがあり、質が全く違っている。荀攸と賈詡を共同して称賛するのではなく、区別するべきだ」と批判しています。

荀攸は策謀に優れながらも、謙虚かつ品行方正な人物で、曹操からもその人柄を称賛されていました。

それと比較すると、賈詡の人格は劣っている、というのが裴松之の見方だったようです。

しかし評で比されている陳平は、兄嫁と密通をしたり、取り立てた者から賄賂を受け取ったこともあると、いういわくつきの人物でしたが、その優れた智謀ゆえに、劉邦から重く用いられていました。

張良と陳平を並べた時点で、陳寿の評は倫理感を問題にせず、智謀のみで評価したのであり、だとすると、荀攸と賈詡を並べて評したのは、特におかしなことだとは感じられません。

それに賈詡という人物は、全体として見ると道理にかなった行いや発言をしようと努めており、特に人格に問題があったという印象は受けません。

とはいえ賈詡の倫理感は、それに沿うようにした方が生き延びられる可能性が高くなるからという、打算に基づくものであった可能性が高く、人格に根付いたものだったかどうかは、疑わしいところはありますが。

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