「泣いて馬謖を斬る」とは 諸葛亮と馬謖の関係性について

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どうして諸葛亮は馬謖を信頼したのか?

では、諸葛亮に人を見る目がなかったのかというと、一概にそうだとは言えません。

馬謖は人なみはずれた頭脳を持っており、戦略を論じさせれば、諸葛亮以上に優れた意見を述べることもありました。

このために諸葛亮は馬謖を高く評価し、いつも側に招いて議論を交わしており、それは一昼夜に及ぶこともあったほどです。

諸葛亮は225年に、反乱を起こした蜀の南方を征伐しにおもむくのですが、その際に馬謖から次のような助言を受けました。

「南中は要害と、遠隔地であることを頼みにし、長いあいだ服従しませんでした。

今日これを打ち破っても、明日になればまた反旗をひるがえすでしょう。

現在、との(諸葛亮)は国力をかたむけて北伐を行い、逆賊を討つ予定ですから、その隙に彼らは必ず反逆するでしょう。

かといって彼らを殲滅するほどに容赦なく攻撃をすると、仁者の道から外れてしまいます。

用兵の道は、心を攻めることを上策とし、城を攻めることを下策とします。

願わくは、公は彼らの心を屈服させ、反逆の気持ちを起こさせないようにしてください」

この助言を受け入れた諸葛亮は、南蛮王の孟獲もうかくに勝利しても、わざと彼を解放し、再び自分に立ち向かってくるように仕向けました。

そして何度も勝利を重ねることで、孟獲に「諸葛亮には決してかなわない」と思わせ、心を屈服させることで、二度と蜀に逆らわないようにしたのです。

この効果によって南方では以後、反乱が起こらなくなり、諸葛亮は北伐に集中できるようになったのでした。

劉備の忠告

このように、馬謖には的確な戦略を考案した実績があったことから、諸葛亮は彼を重く用いるようなったのです。

しかし劉備は、そんな馬謖の欠点を見抜いていました。

馬謖は机上で戦略を考えさせると、秀でた意見を言えるのですが、あれこれと考えすぎてしまい、時に本質から外れた行いをしてしまうため、実戦の指揮には不向きな人間だったのです。

このため劉備は臨終に際し、諸葛亮に「馬謖は実質よりも言葉が先行するから、重要な仕事を任せてはいけない。君はこのことをよく承知しておきなさい」と忠告していました。

諸葛亮が馬謖を寵愛しているのを見て、危ぶんでいたのでしょう。

そして諸葛亮は馬謖が失敗を犯して初めて、劉備の言葉の正しさを実感することになったのでした。

馬謖の手紙

馬謖は処刑の直前に、諸葛亮に手紙を送りました。

とのは私をわが子のように扱われ、私は公を父のように思ってまいりました。

どうか、私に罪があるからといって、わが子まで罰するようなことはなさらないでください。

平素の交わりを損なうことがないようにしてくだされば、私は冥土にあってもなんの心残りもありません」

馬謖は処刑を命じた諸葛亮のなんら怨みも抱いておらず、ただ最後に、残される子供のことを心配していたのでした。

諸葛亮は馬謖の葬式に出席しましたが、罪人の子となったその遺児を、いつもと変わりなく待遇しています。

二人の間には親しい交情があり、それは馬謖の死後も損なわれなかったのでした。

蒋琬との対話

少し時間が過ぎてから、諸葛亮の腹心である蒋琬しょうえんが漢中を訪れ、馬謖について話をしました。

蒋琬は「天下がまだ平定されていないのに、優れた智謀の士を処刑してしまったのは、なんとも残念なことです」と言って、馬謖を惜しみます。

実際のところ、馬謖には直接指揮をさせず、作戦を立案するのに専念させていれば、この後も役に立っていたでしょう。

すると諸葛亮は「かつて孫子が大きな勝利を収めたのは、法の執行が明確だったからだ。天下は三国に分裂し、戦いが始まっているのに法を無視すれば、どうして逆賊を討つことができよう」と答えます。

このように、諸葛亮は軍の規律をいい加減にすれば、指揮が行き届かなくなって勝利できなくなるので、馬謖に公正な、厳しい処分を下したことを明らかにしたのでした。

諸葛亮も処刑をしたかったわけではないのですが、馬謖が命令違反を犯した上に大敗したので、守りようがなかったのだとも言えます。

ところで、馬謖が諸葛亮の命令をきかなかったのは、諸葛亮にも助言して成功した過去があるため、自分の方が前線においてもより的確に策を考えられると、思い上がってしまったのが原因だったかもしれません。

諸葛亮は馬謖の本質を見抜けず、馬謖もまた自分の向き不向きが、十分には理解できていなかったのでしょう。

「泣いて馬謖を斬る」とは、それゆえに起きた悲劇だったのでした。