曹操はどうして官渡の戦いで袁紹に勝利できたのか?

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延津の戦いで文醜を討ち取る

曹操軍は袁紹軍の陣営を焼き払った後、住民を移住させた上で白馬を放棄しています。

白馬にはたいした防御施設はないため、袁紹の本隊の攻撃を防ぐのは難しいと判断したためです。

これを受け、袁紹は将軍の文醜と劉備に命じ、騎兵を用いて曹操軍を追撃させました。

追撃を知った荀攸はまたしても策を立て、物資の輸送隊を囮にして文醜を引きつけることを曹操に進言し、これが採用されます。

文醜は荀攸の策にはまり、輸送隊を捕らえて物資を奪おうと隊列を乱したところを曹操軍に襲撃され、あえなく戦死しています。

こうして緒戦で袁紹は顔良・文醜という前線を担わせた武将を二人も失っており、人材の選択において過ちを犯してしまいました。

これは敵の荀彧にも、味方の沮授にも指摘されていたことでしたが、袁紹には人を見る目が欠けていたことが、これらの戦いからうかがい知ることができます。

官渡で本戦が始まる

曹操は白馬から撤退した後、防衛線を構築していた官渡に移動し、迎撃体制を整えます。

官渡は複数の河川が交差する防衛に適した土地で、袁紹との戦いに備え、あらかじめここに砦を築いて準備を進めていたのです。

本隊を率いて南進した袁紹は、この官渡の防衛線を崩壊させるため、10万の大軍を用いて攻撃を開始します。

この時に沮授が再び「曹操には速戦が有利で、我が方は持久戦が有利です」と言って攻撃を自重するようにと勧めましたが、袁紹はまたも退けています。

よほどに曹操を一息に討ち破ることにこだわりがあったのでしょう。

袁紹は名門意識が強い人物で、宦官の義理の孫という身分の出身である曹操を侮ろうとうする傾向を持っていました。

それがこの強攻策に影響を及ぼしたと思われます。

袁紹は大軍の利を活かすため、東西に広く軍勢を展開し、全体を少しずつ進ませて敵を攻撃する、という方法で進軍しました。

これには曹操も有効な対応策を繰り出すことができず、軍を展開して迎撃しますが、袁紹軍を食い止めることができません。

「大軍に兵法なし」という言葉がありますが、袁紹はその兵力を存分に活かせる陣形を用い、曹操に得意とする奇襲を用いてつけ込む隙を与えませんでした。

この時の戦術に関しては、袁紹は的確な選択ができていたことになります。

曹操は官渡の砦に篭もる

野戦で敗れた曹操は全軍を砦に入れ、籠城戦を開始します。

天然の地形を活かして作られたこの砦は非常に堅固で、袁紹軍もここに至って進軍を食い止められてしまいます。

このため、袁紹は高い土山を築いて城壁を乗り越えようとしたり、地下道を掘って城壁をくぐろうとするなどの作戦を実行しますが、曹操も同様の手段で対抗したため、落城させることはできませんでした。

袁紹は続いて、高い櫓を作ってそこから城内に矢を射かけさせ、曹操軍の消耗を図ります。

これに対し、曹操は「発石車」というテコの原理を利用して大きな石を飛ばす兵器を作り、櫓を打ち砕いて矢の攻撃を防ぎました。

このようにして攻城戦が展開されるうち、兵力に劣り兵糧の蓄えも十分でなかった曹操軍は、日ごとに疲弊の色が濃くなっていきます。

荀彧に励まされる

こうして持久戦が展開されるうちに、沮授が予測したとおり、曹操軍には厭戦気分が蔓延しはじめ、武将の中には袁紹と内通しようとする者まで現れる始末でした。

さしもの曹操もこの状況に弱気になり、荀彧に対し「本拠の許昌まで引き下がって袁紹を迎え撃つのはどうだろうか?」と撤退をほのめかす書簡を送って相談しています。

これに対し、荀彧は「耐えていれば必ず袁紹の陣営には変事が発生し、策を用いて討ち破れる機会が訪れます」と返事を送り、官渡での戦いを続けるようにと促しました。

この荀彧の励ましと予測を受け入れた曹操は、厳しい防衛戦を継続することを決意します。

このあたり、優れた助言者の言葉を受け入れて行動する曹操と、退ける袁紹の間で差がついていき、ついには戦いの帰趨にも影響を及ぼすことになります。

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