吉田松陰 松下村塾を開き、長州藩の変革を促した思想家の生涯について

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11才にして藩主に講義を行う

松蔭には学問の天分があったようで、わすか9才にして、藩校である明倫館の兵学師範に就任しています。

そして11才の時には藩主・毛利敬親(たかちか)への兵学講義を行い、その内容が立派であったとして賞賛されています。

このようにして、松蔭は早熟な兵学者として藩内で認められる存在になっていきました。

しかしそれを実現するために、松蔭は学問のみに集中した幼少期を過ごすことになり、普通の子どもが当たり前に得られる楽しみや遊びを知らず、それだけに純粋で、同時に危ういところを持った若者として成長していくことになります。

松蔭には同世代の友人が少なかったという話もあり、幼い日々を大人たちに囲まれ、ひたすら兵学の習得に励んでいたことがうかがえます。

長沼流を修め、桂小五郎を弟子にする

松蔭はその後、長沼流という別の流派の兵学も修め、長州藩では随一の兵学者になっていきます。

1849年には藩内で俊英として知られる桂小五郎(後の木戸孝允)に山鹿流兵学を教授し、その才能を高く評価しました。

松蔭は桂小五郎を「事を成すの才あり」と評しますが、その評価の通り、最終的に長州藩を代表して維新を成し遂げたのは、この桂小五郎でした。

やがて松蔭は師になっただけでなく、3才年下の桂小五郎と、親友として付き合うようになります。

松蔭は人の上に立って偉ぶるのを好まず、弟子たちの人格を尊重する態度で一貫しており、これが後に多くの若者たちを引きつける要因になっています。

アヘン戦争の影響を受け、佐久間象山の弟子となる

こうして松蔭は長州藩における兵学の大家として成長していきますが、やがて1840〜42年に勃発したアヘン戦争において、日本の隣国であり、「眠れる獅子」と呼ばれた大国・清がイギリスに大敗したことが伝わってきます。

これによって松蔭は、自分がこれまで学んできた、旧来の兵学がもはや通用しない時代になったことを悟ります。

長州藩の軍事顧問としてこの事態を見過ごすはできず、松蔭は新たに西洋兵学を学ぶため、藩の外に出て活動するようになりました。

そして1850年、20才の時に江戸に留学し、洋学の第一人者である佐久間象山の塾に入門します。

松蔭も佐久間象山も、清の思想家・魏源が著した「海国図志」という書物を読んでおり、海外の情勢を知るとともに、「西洋を師として技術を学び、西洋に対抗する手段を得る」という、明治期において日本が実践した思想に触れる機会を得ています。

佐久間象山から賞賛される

松蔭は師の佐久間象山から小林虎三郎と並び、「弟子たちの中で最も優れている」と評されました。

そしてその胆力を賞賛され、必ずや大きなことを成し遂げるだろう、と励まされています。

しかし同時に象山は「自分の子どもを預けるのであれば小林虎三郎の方だ」とも述べており、松蔭の持つ危うさにも気がついていたようです。

事実、松蔭と接した若者たちは、その多くが20代のうちに命を散らしています。

松蔭がその思想を深めていった結果、多くの血を長州藩の若者たちに流させることになり、後に長州藩そのものも、危うく滅亡する寸前にまで追い込むほどの、激烈な影響を及ぼすことになります。

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