吉田松陰 松下村塾を開き、長州藩の変革を促した思想家の生涯について

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草莽崛起論(そうもうくっきろん)を唱える

松蔭はこの時に、もはや幕府にも諸藩にも日本を統治していく資格はなく、草莽(民間)の中から志を持った者が立ち上がり、行動を起こすしかない、という「草莽崛起論」という思想を述べています。

崛起とは、風に吹かれながらも、一本の草がくっきりと立っている、という意味です。

これは金子重之輔や野村和作といった、命を惜しまない行動を見せた若者たちが、いずれも既得権益に縛られない、低い身分の出身であったことが影響しているのでしょう。

この思想は久坂玄瑞に受け継がれ、彼と付き合いがあり、脱藩浪士として自在に活躍した、坂本龍馬にも影響を与えたと考えられます。

また、後に久坂玄瑞や高杉晋作が設立する、民間人を集めて編成された「奇兵隊」という軍隊において、その思想が具現化されています。

先に述べた、神聖なる天皇に万民が尽くして国を成り立たせる、という国体論と、この草莽崛起論をあわせることで、松蔭の維新思想は、完成に至ったのだとみることができるでしょう。

安政の大獄

松蔭が立てた様々な策は成功しなかったものの、この頃には薩摩藩と水戸藩、そして尊王派の志士たちが手を結び、朝廷に働きかけて「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」と呼ばれる、朝廷からの命令書を受け取っていました。

これは幕府に日米修好通商条約を締結したことへの弁明を要求し、攘夷遂行のための改革の断行を促すものでした。

これが水戸藩に下され、諸国の大名たちに回覧させるようにと命じられたのですが、これが実行されれば、幕府は朝廷や水戸藩の風下に置かれてしまい、その権威は地に落ちることになります。

さらに、これに関わった者たちの中には、幕府を主導する大老・井伊直弼(なおすけ)の暗殺を企む者たちも含まれていました。

このため、井伊直弼は「安政の大獄」と呼ばれる大弾圧を実行するに至ります。

朝廷から密勅を得るための工作を行っていた志士の中に、梅田雲浜(うんぴん)という人物がいたのですが、彼はこの時に井伊直弼の命令によって逮捕され、倒幕を企んだ罪を追求されます。

そして拷問を受けますが、頑として口を割らなかったため、関係者を江戸に呼び寄せて尋問を行うことになりました。

松蔭は梅田雲浜が長州に遊説をしに来た時に会ったことがあり、このために松蔭もまた召喚の対象になっています。

江戸へ護送される

松蔭が江戸に召喚されたという話が伝わり、それまで距離を置いていた弟子たちが松蔭の元に集い、別れを惜しみました。

松蔭は幕府に反抗する策をいくつも考え、実行にも移していたため、それが幕府の知るところとなり、詮議を受けて処罰されるのではないかと、心配されたのです。

この時に松蔭の監視係が便宜を図ってくれ、一日だけですが、実家に戻って親や兄弟たちと一緒の時間を過ごすことができました。

その翌日、松蔭は家族や弟子たちに別れを告げると、江戸に護送され、幕府の裁判機関である評定所(ひょうじょうしょ)で尋問を受けることになります。

間部詮勝の襲撃計画を自白してしまう

この時点では、実は松蔭の立場は参考人でしかなく、梅田雲浜が京で企んでいた陰謀の内容を知っていないかと問われただけでした。

松蔭は梅田雲浜のことを評価しておらず、このために彼の計画には関与していません。

このために何も知らないことを尋問にあたった役人たちに告げ、それで事が収まり、長州藩邸に戻ることを許されようとしていました。

しかし松蔭は役人たちに対し、幕閣の間部詮房を襲撃して、条約の撤回と攘夷の実行を迫る計画を立てていた、と話してしまいます。

これはどうして野山獄に入れられていたのか、その理由を説明するためでした。

松陰は計画が幕府に知られていると思い込んでおり、このために話すことにためらいがなかったようです。

そんな策謀のことなど知らなかった役人たちはこれを聞いて驚き、松蔭もまた幕府を脅かそうとする陰謀家であると知り、以後は詮議が厳しくなっていきます。

つまりは松陰の早合点によって、問われなくてもすんだ罪に問われることになってしまったのです。

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