久坂玄瑞と妹を結婚させる
松蔭は弟子たちの中で、特に久坂玄瑞と高杉晋作の2人を高く評価していました。
玄瑞に対しては妹の文と結婚してくれと頼み、義弟にまでしています。
玄瑞は松蔭に師事する前に、手紙のやり取りをして時勢に関する議論を行いましたが、この時に松蔭は玄瑞がただ者でないと認め、なんとか大成させたいと思うようになります。
松蔭の期待通り、玄瑞は後に長州の尊王攘夷派を代表する存在になり、藩論を主導する立場にもついています。
日米修好通商条約の締結に激怒する
こうして松蔭は教育者としての活動を始めますが、平穏な日々は長く続きませんでした。
1858年になると、徳川幕府は朝廷の許可を得ないままに、「日米修好通商条約」を締結します。
これは日本とアメリカの間で交易を開始し、横浜や大阪、兵庫などを開港し、外国人の居住を許可するという条約でした。
これには不平等な条項が含まれており、関税を自主的に定められる権利が日本にはありませんでした。
このため、やがて低い関税で諸外国の物産が日本に入り込み、輸入超過となって財政的に苦しめられることになります。
これほどの重大かつ日本に不利な条約を、朝廷の許可なく締結した幕府に対し、松蔭は激怒します。
天皇を崇拝する思想を抱き、西洋諸国の圧迫を憂いていた松陰には、幕府の行動はとても許せるものではありませんでした。
間部要撃策(まなべようげきさく)を計画する
この状況を覆すため、松蔭は「間部要撃策」という策を計画し、実行に移そうとしました。
この頃に、幕閣の間部詮房(まなべ あきふさ)が孝明天皇に対し、無断で条約を結んだことを弁明するために、京都を訪れるという話が持ち上がっていました。
これを襲撃して間部を捕縛し、条約の破棄と攘夷(外国人の打ち払い)の実行を迫る、というのが松蔭の計画でした。
松陰は、いずれは開国して他国と交易を行い、日本の国力を高めなければならない、と考えていましたが、国内にろくな産業がない現状では時期尚早であり、それゆえにこの条約は破棄するべきだと考えていたのです。
この策を実行するため、長州藩に大砲を借してくれるようにと頼みますが、当時の長州藩は幕府への反抗が認められるような情勢ではなく、拒絶されています。
この頃から松蔭の行動は極度に過激なものとなっていきましたが、同時期に水戸藩や薩摩藩なども幕府の失政を非難する動きを見せており、日本全体で見れば、決して孤立した動きではありませんでした。
「狂」の思想
長州藩は幕府に従う立場にあり、藩主の毛利敬親は将軍の家臣です。
にも関わらず、長州藩士として生まれた松陰が、幕府の要人を襲撃するなど、本来なら計画することすらあってはならないことですし、武士が守らなければならない忠義の道を外れる行いであったと言えます。
このため、松陰は自分の行いを正当化するための論理を必要とします。
この時に松陰が用いたのは「狂」という言葉でした。
武士としての倫理を捨て、狂人となって幕府の政治の間違いを正す。
これが松陰が自らの立場を正当化するために述べた「狂」の思想でしたが、現代で言えば「一個人として、身分やしがらみから自分を解放し、信じる正義のために行動する」と宣言したのに等しいでしょう。
当時は個人という概念はありませんでしたので、「狂」という言葉を用いたのだと思われます。
しかしそれゆえに、この時点では松陰の考えが周囲の人々から理解されることは、ほとんどありませんでした。
長州藩の人々も、多くの弟子たちも、まだ松陰が捨てた世のしがらみの中で生きていたからです。
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