橋本左内 将来を嘱望されながらも、安政の大獄で散った志士の生涯

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江戸でもその学才を高く評価される

江戸に出た左内は、杉田成卿(せいけい)という学者に師事し、蘭学の研究を続けます。

杉田成卿は初め、左内に洋書一冊を渡して習読を命じ、その学力を試しました。

左内はこれを日夜研究し、わずか一月で完全に習得します。

杉田成卿が書物の内容について質問すると、左内の回答はよどみなく正確で、成卿はその鋭敏さに驚かされた、という逸話が残っています。

成卿は緒方洪庵と同じく、「我が学業を継ぐのは必ずこの人だろう」と左内を賞賛をしました。

こうして左内は江戸でも、その学才によって人に知られる存在となっていきます。

藤田東湖にもその才能を認められる

左内は江戸で勉学に励む一方で、優れた人物の元を訪れ、国事についての意見を交わしていました。

この時に左内が訪れた人物の中には、水戸藩士の藤田東湖も含まれています。

藤田東湖は水戸藩の藩政改革を成功させ、幕政にも参画するようになっていた優れた人物で、この頃には名士として、広く他藩の人物たちと交流していました。

東湖は左内と話すうちに、その学識が並々ならぬものであることに気づき、高く評価するようになります。

このことが、左内の身分を向上させ、志をともにする相手を得ることにもつながっていきます。

西郷隆盛と知り合う

東湖は薩摩藩士の西郷隆盛から慕われており、親しい付き合いを持っていました。

左内は東湖と関わるうちに、やがて西郷の人となりを聞く機会があり、興味を抱いて薩摩藩邸に足を運びます。

この時に西郷は趣味の相撲に興じていましたが、左内の紋付袴という堅苦しい姿と、小柄な体格を見て、たいした人物ではあるまいと思い込み、侮るような態度を見せました。

西郷は大変な人望があった人物として知られていますが、この頃はまだ26才の若者であり、軽率な面も残っていたようです。

左内はそのような西郷の様子を気にかけず、「共に国家のことを語りましょう」と呼びかけます。

西郷は「私に天下のことはわからない。ただ朝夕ともに相撲に興じるのみです」と言ってとぼけますが、左内は「私はあなたの志がどこにあるか知っています。胸襟を開いてください」と重ねて語りかけました。

すると西郷は、そこまで言われて拒み続けるのも失礼だと思ったのか、ようやく左内と国事について語り合います。

しばらくして左内が帰ると、「景岳(左内の号)は一世の偉人だ。私の無礼によって、あやうく同志を失うところだった」と後悔を述べ、翌日には左内の居所を訪ね、無礼をわびています。

こうして左内と西郷は同志となり、後に日本の情勢を変えるための活動に参画していくことになります。

左内と西郷の関係

西郷は左内の才能を高く評価しており、「先輩としては藤田東湖に服し、同僚としては橋本左内を推す」と常々述べていました。

そして「この二人の才学器識には、とても及ぶことができないし、まねもできない」とまで言っています。

藤田東湖も左内も、どちらも西郷よりもずいぶん先に亡くなってしまうのですが、西郷はその後も二人について語り続けており、常に所持していた鞄には、左内から送られた手紙が大事にしまわれていました。

西郷にとって左内は生涯忘れられない、大切な存在であったようです。

東湖の推薦を受け、士分に取り立てられる

この頃に各地の大藩では、西洋諸国の襲来という新しい情勢に対応するため、藩政改革が進められていました。

しかし、左内の属する福井藩にはこれを主導できる人材が見つからず、参政の鈴木主税(ちから)は藤田東湖を訪ね、「我が藩には人材がいないようです」と嘆きました。

これに対し、東湖は「貴藩には橋本左内がいるではないか」と指摘し、これを聞いた鈴木主税は、医者であるはずの左内が、それほどまでの人材に育っていたのだと知り、藩主・松平春嶽に推挙します。

こうした動きによって、左内は藩医を免じられて士分になり、ついに藩政に参画する資格を与られています。

こうして東湖との関わりによって、西郷隆盛と知り合い、士分にも取り立てられるなど、大きな恩恵を受けることになりました。

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