橋本左内 将来を嘱望されながらも、安政の大獄で散った志士の生涯

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弟が兄の肖像を示し、春嶽が小伝を残す

こうして左内は若くして刑死してしまい、直接にはその志を受け継ぐ者がいなかったため、歴史に埋もれた存在となっていきます。

明治8年になってから、弟の綱惟(つなこれ)が兄・左内の肖像画を示し、松平春嶽に賛文の執筆を依頼しました。

この時に春嶽は「橋本左内小伝」という文章を記し、その生涯と人となり、事跡について記しており、これによって身近な人物から見た左内のありようを知ることができます。

春嶽は小伝の最後に「綱記(左内)は多年国家の命運に関わる問題を解決するため、さまざまに思いをめぐらし、寸暇なく活動したが、時勢はそれを許容せず、ついに悲劇的な結果となってしまった。今、この肖像と対面して当時を回想し、思わず涙がこぼれ落ちてしまった」と哀惜の念を表しています。

左内という人

こうして見てきた通り、左内は優れた学識を備え、思索を積み重ねることで、危機に陥った日本のあるべき姿を模索した人物でした。

そして単に思索していただけでなく、実践にも取り組み、教育改革や産業改革を推進し、明治以後に実行される政策の、先駆的な事例を残してます。

それを24才前後の時期から担当して実績を残し、秀でた才能を示していました。

もしも安政の大獄で刑死することがなければ、明治維新以後に、教育や内政、外交など、いずれかの分野で大きな事跡を残していたものと思われます。

こうした人物を安易に処刑してしまったことを捉えても、幕府にはもはや日本全体を統治していくだけの力量も資格もなかったのだと言えるでしょう。

そのことは当時から既に指摘されており、倒幕という運動は、幕府の私欲が招き寄せた結果なのだと言えます。

幕末にはこうした優れたの人材の無残な死が数多く、変革期というのは、実に痛ましいものだと感じさせられます。