橋本左内 将来を嘱望されながらも、安政の大獄で散った志士の生涯

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東湖の死と、武田耕雲斎の評価

しかし、こうして左内の生涯に大きな影響を及ぼした東湖は、1855年に発生した安政の大地震によって、不意に死去してしまいます。

西郷はこの事態について、「なんと語ってよいか、言葉もない」と知人に宛てた手紙に記し、深い嘆きを現しています。

左内もまた衝撃を受けたでしょうが、東湖の同志・武田耕雲斎に会った際に、「東湖の死後にまた東湖あり」と評されています。

耕雲斎の目には、左内は東湖と同等の才能を持つ人材だと見えたようで、左内は若くして、多くの人々から期待を受ける存在になっていきました。

藩校・明学館の学監になり、教育改革に取り組む

左内は士分に取り立てられた後、福井藩の藩校・明学館の学監という地位に就き、教育者や藩士たちを指導することになります。

この時の福井藩では、崎門派(きもんは)という観念論を重視する学問が主流となっていましたが、この学問では幕末の危機的な状況に対応できませんので、左内はこれを改めることに努めます。

左内は従来の風潮を変えるため、実学を重視し、藩校の教官たちを諭して教え導くことで、その弊害を取り除いていきました。

この時に左内は「政治と教育の一致」「文武の一体化」、「経済の有用」などの方針を立てて教育を行っています。

政治と教育の一致とは、学識や人格に秀でた人材に、それにふさわしい身分を与えて処遇し、人材が無駄にならないように努めることを指しています。

江戸時代は身分制の社会で、親から引き継いだ身分がそのまま子に反映されるようになっており、当人の能力だけで出世をするのは難しい状況にありました。

左内はそれを改め、有為の人材を活用できる体制を作るため、政治と教育の一致という方針を掲げたのです。

洋書習学所を設ける

また、左内は洋書習学所を設け、西洋の学問や技術を学ぶことの重要性を説きます。

この時に左内は「洋学は筋合いを正しくして学べば利が多いけれども、ずさんに取り組むと害が多くなる。故にこの学問を始めるに当たっては、用心しなければならない」とも述べており、西洋の学問を学びさえすればいい、とは考えていなかったことも示しています。

精神性を高めるための、従来の儒学教育も重視しており、西洋学問を崇拝し、日本を軽視するような者が現れないように努め、洋学を独立させず、学問所の一部門として取り扱うにとどめました。

左内は人としての実が伴わない者に技術や知識だけを教えても、役に立つ人物にはならないと考えていたようです。

福井藩の改革を進める

また、福井藩の財政難の立て直しのため、左内は特産品である生糸を海外に輸出する準備を進めて行きました。

それ以外にも、漆器や紙が有望な商品となることを指摘し、藩が専売制を敷くように意見を述べ、西洋では茶の需要が高いので、領内で栽培できないか検討しています。

左内が主導した改革は、実学を重視し、開国と富国強兵の方針によって、西洋列強が跳梁する国際環境下で、日本を生存させようとするためのものでした。

こうして福井藩士たちの意識改革と、学識の伸張を進めるうちに、藩主の松平春嶽も左内の優れた才能を知ることになり、国事周旋の片腕として用いることにします。

このために左内は江戸に呼ばれ、侍読(主君に学問を教える立場)、および御用掛という地位を与えられ、春嶽の身近に仕える立場になりました。

これは1857年のことで、左内はまだわずか24才でした。

この年齢で福井藩の教育改革を推進し、藩主の側近にまで出世したわけですので、左内がいかに優れた人材であったのかがうかがえます。

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