月照とは
月照は京都にある清水寺・成就院の住職を務めていた僧です。
【月照の肖像】
単に僧であっただけでなく、国を憂う気持ちが強く、天皇の権勢を復興させることで日本をひとつに束ね、国力を強化するべきであるとする、尊王思想の信奉者でした。
そして月照は、諸外国との国交が開かれたことで、やがてキリスト教が日本に入ってきて、仏教が迫害されることになるのではないかと危惧もしていました。
そのような事情により、月照は成就院の住職を地位を弟の信海に譲り、自身は政治活動に身を投じるようになります。
清水寺には引退する旨を伝えていたのですが、成就院に居住することは認めてもらい、そこを拠点として京を奔走しました。
月照は1813年生まれでしたので、ペリーの来航時には40才だったことになります。
一方、西郷は1828年生まれでしたので、月照よりも15才年下でした。
近衛忠煕との親交
月照は元より、和歌の道を通じて近衛忠煕と交際を持っていました。
月照も近衛忠煕も、ともに物静かな人柄で、それゆえに気が合い、親しくなっていったと言われています。
そしてその近衛家は島津氏との関係が深かったわけですので、そのうちに自然と西郷とも知り合うようになりました。
他にも、公家の家臣・小林民部、水戸藩士の鵜飼吉左衛門、浪士の頼三樹三郎なども近衛家との関わりを持っており、尊王派の人士が多く出入りをしています。
この時期には、そのような初期の尊王派の活動グループが形成されており、月照は彼らとも親交を持ち、積極的に活動するようになっていきました。
朝敵を調伏する
月照は近衛家の他にも、青蓮院宮という皇族の家にも出入りしています。
月照は僧の身分ですので、武士たちとは違い、公卿や皇族たちのもとに出入りすることが制限されていませんでした。
その立場を活用して、皇族や公家と諸藩士たちのとの間をつなぎ、連絡を密に行えるようにと努めていたのです。
ある時には、近衛家に直接入れない西郷や鵜飼を、月照は自分のお供であるように扮装させました。そして近衛家に連れて行って当主・忠煕に面会させる、という便宜を図ってもいます。
しかし、僧が大男である西郷を連れて歩いているのですから、町中ではどうにも目立ってしまい、やがて月照は何やら怪しい動きをしているようだと、幕府の役人に目を付けられることになりました。
尊王活動によって朝廷の権威が高まると、幕府の権威の低下につながりますので、月照は幕府にとっては都合の悪い人間だったのです。
篤姫の輿入れに成功し、その後も活動を行う
やがて月照の支援や、西郷の働きかけのかいがあって、篤姫を近衛家に養女として迎えてもらうことに成功しました。
数ヶ月の間、篤姫は近衛家に滞在して養女しての資格を確立させると、京を出立して江戸城に入り、徳川家定の正室になりました。
この間に江戸で大地震があった影響を受け、工作の成就には2年を要しています。
将軍の後継者問題
こうして斉彬は将軍家への影響力を強めると、自身が理想とする政治を実現するために、次の将軍に一橋慶喜を就任させようとする工作を開始しました。
篤姫を嫁がせたものの、家定に子どもが生まれる可能性は低いものでした。
家定は病弱で、近いうちに亡くなるだろうと見なされており、次の将軍を選ぶのが幕府にとっては急務になっていたのです。
一橋慶喜はまだ年若かったものの、時勢に明るく、英明であるとの評判が立っており、これは当時の日本の政界では常識となるほどに広まっていた話でした。
このため、彼を将軍の地位につけることで、幕府の近代化改革を実行できる体制を作ろう、というのが斉彬の構想でした。
これに賛同する松平春嶽や山内容堂、徳川斉昭といった諸大名たちと一緒に幕府や朝廷に働きかけ、慶喜の将軍就任を実現しようとします。
西郷は京でこれを実現するための工作にあたりましたが、月照も同様でした。
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