裏切りと佐久間盛政の計画
この時、秀吉軍からは勝家軍に内通する者が出ており、秀吉軍の配置は筒抜けになっていました。
これを活用し、勝家配下の猛将・佐久間盛政が勝家に対し、敵の前線を切り崩す奇襲作戦を提案します。
勝家もまた膠着した戦況を動かす好機だと捉えており、盛政の作戦を承認しました。
この時に標的になったのが、清秀が守る大岩山砦です。
山中の間道を密かに行軍すれば、勝家軍の陣営から、大岩山砦までまっすぐにたどり着くことができますので、奇襲をしかけ、清秀隊を撃破しよう、というのが盛政の作戦でした。
奇襲と敗北
そして1583年4月19日、盛政は6千の部隊を率いて出陣し、山中を行軍して大岩山砦へと接近します。
大岩山砦は最前線から少し下がったところにあり、いきなり攻撃を受けるはずのない地点でした。
このために警戒が薄くなっており、盛政の奇襲を受けると、清秀は苦戦を強いられます。
清秀の部隊は3千で、盛政の6千よりも数で劣っている上、いきなりの襲撃を受けたことで、さしもの清秀も劣勢に追い込まれました。
これを受け、隣接する岩崎山に布陣していた高山右近から、こちらに撤退して合流しよう、と呼びかけられますが、清秀はこれに応じませんでした。
清秀は引くことを知らぬ猛将であり、その戦い方によって、これまでに多くの戦功を立て、12万石の大名にまで上り詰めています。
ゆえに、ここでも引き下がることはなく、奮戦を続けますが、盛政もまた清秀に劣らぬ猛将であり、その攻撃は激しく、ついに清秀隊は壊滅します。
そして撤退を拒んだ清秀は、盛政に討ち取られてしまいました。
秀吉は勝利する
大岩山砦が落とされたと知った秀吉は、わずか5時間の急行軍で、美濃から北近江にまで駆け戻り、勝家と決戦を行いました。
盛政は清秀を倒すと、大岩山砦を占拠し、勝家の撤退命令もきかずに敵の渦中に踏みとどまっており、これが勝家軍のほころびとなりました。
このあたりの動きからしても、盛政と清秀には、似たところがあったと思われます。
こうして盛政が突出し、陣形が崩れた隙をついて戦ううちに、勝家軍は崩壊し、秀吉が大勝利を収めています。
結果として、清秀の敗北が、秀吉に勝利をもたらすことになったのでした。
勝家に勝利したことで、秀吉は信長死後の混乱を制し、天下人の地位を手中に収めています。
清秀は戦死しましたが、秀吉から死を賭して戦い続け、勝機を作り出したことを称賛されました。
秀吉からすれば、自分が本隊を動かしたことがきっかけで、清秀が戦死したわけですので、負い目を感じるところもあったと思われます。
その後の中川家
清秀の死後、中川家の家督は嫡男の秀政が継承しています。
清秀と秀吉の仲がよかったことから、豊臣政権下で繁栄するかと思われましたが、そう簡単には行きませんでした。
秀政は朝鮮への討ち入りの際に、戦場ではなく、狩りの最中に敵に包囲されて討ち取られる、という失態を演じてしまったのです。
しかもこれを隠蔽しようとしたことが発覚し、秀吉は激怒しました。
このために、あやうく中川家は取り潰されかけたのですが、賤ヶ岳における清秀の武功に免じ、領地は半減されたものの、播磨(兵庫県)で6万石の大名として存続しています。
清秀の命がけの奮戦は、無駄にはなりませんでした。
そして清秀の次男・秀成が当主になり、後に豊後(大分県)の岡に7万4千石で移封されました。
関ヶ原の戦いでは、家康に味方したことで領地を安堵され、明治維新の時まで存続しています。