白井河原の戦い
荒木村重は摂津で勢力を伸ばすにあたり、四国に撤退していた三好氏と同盟を結び、支援を受けるようになっていました。
そして信長と敵対し、信長が任命した摂津三守護と抗争を繰り広げます。
村重はまず、清秀の主君・池田勝正から池田城を奪い取りました。
すると清秀は、精強さを見せる村重に味方し、従うようになります。
村重は清秀ら小領主たちを吸収して勢力を拡大すると、残る三守護のひとり、和田惟政の排除をもくろみます。
そして1571年の8月になると、白井河原で惟政と決戦を行うことになりました。
この時に村重は路頭に札を立て、「和田の首をとった者には、呉服台500貫の地を与える」と約束しました。
これを見た清秀は、札を眺める諸将たちの中から進み出て、「明日の合戦で、俺が必ず和田を討ち取ってくれよう」と宣言し、札を自分の懐に入れました。
枕の奪い合い
自邸に戻り、戦いの準備を整えた清秀が出陣しようとすると、屋敷の奥の間から、なにやら騒々しい物音が聞こえてきます。
清秀が何事かと見に行くと、部屋の中で5才と3才の息子たちが、枕を奪い合いながら「これこそが和田の首だ」と言い争っていたのでした。
清秀は子どもたちの姿を見て喜び、「これは門出がよい」と言って、何杯か酒を飲んでから出陣しました。
当時の武家のありようが、うかがえる逸話です。
馬と糠
その翌日、村重の軍勢2500が終結し、馬塚という場所に布陣します。
そして和田惟政が率いる1000は、糠塚という地に布陣しました。
村重側の諸将は「敵は数が少ないのに、わざわざ不利な平地に布陣している。おそらくはどこかに伏兵を隠しているのだろう。今日は戦わぬ方がよい」と述べ、臆する様子を見せました。
和田惟政は勇猛さで知られる人物でしたので、数が少なくとも、警戒する者が多かったのです。
これに対し清秀は、「和田は勇将であり、伏兵を頼むような小細工をする男ではない。そして、和田が陣を構えたのは糠塚、こちらの陣所は馬塚だ。糠は馬が食らうものだから、我が方の勝利は間違いない。もたもたせずに攻めかかるべきだ」と強く主張します。
村重は清秀の意見に同意し、この日に決戦を行うことにしました。
和田惟政を討ち取る
村重は軍勢を三段に構えてから引き下がるそぶりを見せ、和田軍に誘いをかけます。
すると和田惟政はこれに引っかかり、糠塚から前衛を動かし、まっすぐに村重軍に攻めかかりました。
しかし、軍勢の数が少ないことから、後衛は攻撃をためらっており、惟政に置いて行かれてしまいます。
このため、和田軍は前衛と後衛の距離があき、二つに分断されました。
惟政が策にかかったことに気づいた村重は、自ら旗本(親衛隊)を率いて軍を返し、真っ向からこれに立ち向かいます。
こうして戦いが始まりますが、当初は惟政が有利で、村重の軍勢を追い散らしていきました。
戦況が不利になりますが、清秀は前線に踏みとどまり、敵を追いのけつつ、戦功を立てる機会をうかがいます。
すると、惟政の旗本隊が槍を揃え、逃げる味方に追いすがる姿が目に入ります。
惟政の旗本隊は「鬼神」と呼ばれるほどの精強さで知られ、摂津では恐れられていました。
しかし清秀は強敵にもひるまず、攻撃の機会を虎視眈々とうかがいます。
やがてその距離が一町(110メートル)ほどに近づき、しかも惟政隊は、清秀隊に横腹を見せる状況になりました。
これを好機と捉え、清秀は「人は百才までは生きぬものぞ! 敵を恐れるな! いざ、攻めかかって討ち死にせよ!」と大声で配下の者たちに呼びかけます。
そして皆でそろって鬨の声を上げ、一斉に惟政隊の横合いから突撃をしかけました。
側面から攻撃を受けた惟政隊は動揺し、切り崩されていきます。
やがては清秀隊の猛攻によって、惟政の身辺を守る者たちも、追い散らされていきました。
惟政は全身に槍や刀で傷を受けながらも戦い続けますが、ついに力つきて倒れそうになります。
このため、首を獲ろうと清秀隊の者が近づきますが、惟政は最後の力を振り絞って手傷を与え、それからようやく討ち取られました。
敵将・惟政の戦死によって、村重軍が圧倒的に優勢となり、ついには和田軍を全滅させるほどの大勝利を収めています。
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