中川清秀 賤ヶ岳で奮戦した、引くことを知らぬ猛将の生涯

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一番手柄と認められる

戦勝の夜に、村重は諸将を集めて祝宴を開きました。

その席で、村重の重臣が進み出て、「今日の合戦は、計略を用いて敵を前のめりにさせ、前後に二分させる策が成功したために、勝利できました」とまずは策が的中したことを指摘します。

「しかし、清秀がよい頃合いで横槍を入れたために、和田の旗本が崩れ、惟政を初めとして、敵将を全て討ち取ることができました。今日の勝利は清秀の手柄と言うべきでしょう」と評しました。

これを受けて村重も「策を用いて敵の先手を切り離しはしたものの、鬼神とも呼ばれる惟政の旗本を討ち破るのは、困難なことだった。清秀の横槍の働きあってこそ、味方が勝利できたのだ。そのうえ惟政の首を取ったのだから、間違いなく今日一番の手柄だ」と述べ、杯を清秀に渡して功績を称賛しました。

そして約束通りに呉服台の領地を与えられ、清秀は勇名を馳せるとともに、勢力の拡大にも成功しています。

また、この戦いで摂津の有力領主だった茨木いばらき城主・茨木重朝しげとももまた、惟政に味方して戦死していました。

このため、清秀は新たに茨木城主に任命され、摂津の有力者の地位を手に入れます。

村重が摂津を制する

こうして三守護のひとり、和田惟政が戦死し、もうひとりの池田勝正は、すでに村重の手によって城を追われています。

残る伊丹親興は、信長が武田信玄など、諸勢力に包囲網をしかれて危機に陥った際に信長を裏切り、反抗しています。

しかし、やがて信長が包囲網を討ち破ったことから孤立し、彼もまた村重に居城を攻め落とされました。

この結果、三守護を全て倒した村重が摂津の支配者となり、36万石を支配する大勢力にのし上がっています。

清秀は村重と友好関係を保ちながらも、ある程度は距離を置き、摂津における独立勢力になりました。

しかし、やがて村重が信長から摂津の国主に任命されると、清秀も信長に従い、村重に属するようになります。

そして摂津の混乱の中で、高山右近うこんという武将もまた、清秀と同じように勢力を伸ばしていました。

このため、村重が国主の地位につき、彼に次ぐ実力を備えた清秀と高山右近が協力する、という形で、ようやく摂津の情勢が安定することになります。

村重の謀反

しかし、村重はやがて信長に謀反を起こし、摂津は再び戦場になりました。

村重は当時、一向宗の総本山・石山本願寺との戦いに加わっていました。

戦いが続くうちに、やがて村重の家臣が石山本願寺に兵糧を横流ししていた、という事件が発覚し、これが問題となります。
(これは清秀の家臣のしわざだった、という話もあります)

摂津は石山本願寺の本拠地でしたので、武士や領民にも一向宗の信徒が多く、密かに内通するが絶えず、諸将たちも完全には統制できていませんでした。

ともあれ、信長に裏切りを疑われ、誅殺させることを恐れた村重は、信長に敵対する毛利氏と連絡を取り、謀反を起こすことを決意しました。

信長は明智光秀らを派遣して説得させ、村重を引き留めようとします。

しかし村重の家臣が「安土ではすでに殿を討ち果たそうとする準備が進んでいます」と報告したことで、村重は籠城する覚悟を固めました。

清秀は村重の城を訪れ、信長の元に留まるようにと説得しますが、村重が聞き入れなかったことから、やむなく防戦の準備を進めます。

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