奮戦する
やがて清秀の本隊が、天王山の山裾を横切ろうとしたところに、明智軍の伊勢貞興が攻めかかってきて、本格的に先端が開かれました。
そして清秀隊に隣接する高山右近の部隊にも、明智軍の副将・斎藤利三が猛攻をかけて来たために、激戦となります。
明智軍は士気が高く、清秀と右近の部隊は窮地に追い込まれました。
しかし清秀は引き下がらず、将兵たちを励まして抵抗を続けます。
そうして持ちこたえているうちに、秀吉の本隊から堀秀政が救援に駆けつけ、さらに天王山の麓に布陣していた黒田官兵衛らも前進し、明智軍と一進一退の攻防を繰り広げました。
この結果、清秀は山崎の戦いにおいて、最も激しい戦場を受け持つことになっています。
こうして清秀らが奮戦するうちに、やがて右翼に布陣していた池田恒興が光秀の本隊を奇襲し、明智軍の動揺を誘います。
戦局が変わったことを察知した清秀らが、力戦して伊勢・斎藤隊を押し戻すと、ついに明智軍は全面的に崩壊し、撤退を始めました。
清秀と戦っていた伊勢貞興は戦死し、斎藤利三は逃亡しています。
追撃の好機でしたが、清秀隊はすでに激しく消耗していたため、その場に留まって休息を取らざるを得ませんでした。
秀吉とのやりとり
戦いが終わって清秀が休んでいると、やがて織田信孝が陣営を訪れ、馬を降りて清秀の手を取ります。
そして「明智を討ち破り、父・信長の恨みを晴らすことができたが、これは清秀の比類なき働きによるものだ」と称賛しました。
すると、その後から秀吉がやって来て、こちらは馬も降りずに、頭上から「瀬兵衛、骨折り、骨折り」と述べ、偉そうに「ご苦労であったな」と呼びかけてきました。
(「瀬兵衛」は清秀の通称です。)
これに清秀は腹を立て、「筑前(秀吉)、早くも天下人になったつもりか!」と言い返しました。
しかし秀吉はなんら返事をせず、そのまま立ち去ってしまいました。
こうして信長の仇を討ったことで、秀吉は天下人への道を突き進んで行くのですが、早くも態度に出すことで、その意思を表明したのでした。
この戦功は信孝のものではなく、自分のものだぞ、とも言いたかったのだと思われます。
清秀も言い返しながらも、これからは秀吉の世になるのか、と察したことでしょう。
しかし清秀は、秀吉が天下人になった姿を見ることはありませんでした。
賤ヶ岳の戦い
その後、秀吉は光秀を討った功績によって、織田家中で随一の存在になっていきます。
しかし、これを気に入らなかったのが、筆頭家老の地位にあった柴田勝家でした。
やがて勝家は信孝と手を組んで秀吉に対抗するようになり、ついに1583年には、両者の間で決戦が行われることになります。
清秀は秀吉に味方して出陣し、勝家の軍勢と戦うことになりました。
秀吉と勝家は北近江(滋賀県北部)の賤ヶ岳付近で対陣し、互いに数万の軍勢を繰り出します。
山地で向かい合った両軍は、ともに多くの砦を築いて防衛網を構築し、にらみ合い、持久戦を行う形勢となります。
すると、やがて美濃(岐阜県)で信孝が挙兵し、秀吉は北と東に敵を抱える状況になりました。
このために秀吉は北近江を離れ、先に信孝を攻めることにします。
一方、勝家にとってこれは好機となり、勝家は北近江の残留部隊に攻撃をしかけることにしました。
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