中川清秀 賤ヶ岳で奮戦した、引くことを知らぬ猛将の生涯

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古田重然に説得を受ける

信長は村重の説得に失敗すると、その両翼とも言える清秀と高山右近を、村重から引き剥がそうとします。

清秀の妹は、信長に仕える古田重然しげなり(後の織部おりべ)という武将に嫁いでいました。

このため、信長は古田重然を通じて清秀と交渉し、摂津で12万石の領地を与えることと、さらに娘の鶴姫を清秀の嫡男・秀政ひでまさに嫁がせるとまで約束し、相当な好条件で寝返りを促しました。

清秀はすぐに返事をせず、これらの話を村重にそのまま伝えます。

この頃には高山右近ら、摂津の諸将の多くは信長に寝返っており、村重は孤立していました。

そして村重直属の1万5千の軍勢も、ほとんどが逃げ散って5千にまで減少しており、村重は気落ちしていました。

このため、村重は「すでに多くの者が背き、わしに仕えても家運は開けぬであろう。だから中川殿も織田殿に属されよ」と伝えます。

これを受け、清秀は村重から離れることを決意しました。

そして古田重然に対し、信長に属する旨を伝えると、信長は大いに喜んで清秀を迎え入れました。

摂津全体が敵対すると、畿内西部の戦線が危機に陥るため、信長は清秀や高山右近の引き留めに必死だったのでした。

それが結果として清秀に多くの領地と、信長と縁戚関係になるという果実をもたらすことになります。

戦場の手柄による出世ではありませんでしたので、清秀の性格からして、複雑な心境になっていたことでしょう。

村重はしばらく抵抗を続けますが、毛利氏の援軍を得られず、追い詰められ、やがて本拠の有岡城を信長に攻め落とされます。

そして全てを失い、身一つで中国地方に落ち延びることになりました。

秀吉と光秀の戦い

こうして清秀は摂津の大名にのし上がりますが、やがて、またしても重要な局面に関わることになります。

1582年になると、天下統一を目前にしていた信長が、明智光秀の謀反によって本能寺で討たれました。

すると、中国地方の攻略にあたっていた羽柴秀吉が、対戦していた毛利氏と和睦し、わずか数日で畿内に帰還します。

そして摂津の諸将に呼びかけ、自分に味方して光秀と戦うようにと促しました。

抜け目ない秀吉は、かねてより摂津の諸将との間に友好関係を築いており、清秀とも義兄弟の契りを結んでいます。

摂津は京の西隣にあり、中国地方の入り口ともなる重要な拠点ですので、そこに勢力を築いていた清秀は、自ずとその存在を重要視されるようになっていたのです。

このため、清秀は秀吉に味方すると約束し、3千の兵を率いて光秀との戦いに臨みました。

天王山の取り合い

やがて秀吉は清秀の他にも、高山右近や信長の三男・信孝のぶたか、丹羽長秀といった諸将を束ね、3万の大軍を編成します。

これに対し、光秀はほとんど味方を増やせず、その兵力は1万5千程度でした。

そして両者は京都の西にある山崎の地で決戦を行います。

この時に、戦場の北西部にある天王山を抑えた方が有利に戦えるだろう、との観測が強まります。

【山崎の戦いの配置図】引用元:コトバンク

このため、清秀は手勢のうちの600を割き、天王山を占拠させました。

やがて光秀の家臣・松田政近まさちかもまた、天王山を取ろうと攻め寄せてきますが、清秀隊が鉄砲を撃ちかけ、秀吉の配下・堀尾吉晴よしはるらと挟み撃ちにすることで、これを撃退しています。

こうして秀吉軍は天王山を抑えることに成功し、有利な立場を手に入れました。

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