上杉謙信(長尾景虎) 軍神と呼ばれ、信義に生きた武人の生涯について

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元服と初陣

1542年、謙信が12才の時に父が病死します。

この時にはすでに兄の長尾晴景が家督を継いでいました。

しかし、彼は父にも弟にも似ず柔弱な人物で、国人領主たちが激しく争う越後をまとめ上げていく力はありません。

そのため、越後では長尾氏に敵対する勢力が増大し、不穏な空気に満たされていきます。

そんな中、謙信は元服して長尾景虎と名のり、兄の命を受けて栃尾城主になります。

栃尾城の周辺には長尾氏に逆らう者たちがおり、それらを平定するのが謙信の役割でした。

1544年になると、ついに長尾氏への反乱が勃発し、栃尾城周辺の豪族たちが、謙信がまだ経験の乏しい若造だとあなどり、攻め寄せてきました。

謙信はこれが初めての実戦でしたが、慌てる様子も見せずに、配下の軍勢に巧みな指示を出します。

謙信の手元にいた兵は少数でしたが、これを二手に分けて反乱軍に対処しました。

まずは一隊に敵の本拠地を急襲させ、意表をつくことで混乱させます。

そして統制が取れなくなった敵軍にもう一隊を突撃させ、鮮やかな手並みで撃破しました。

このようにして謙信は、初陣とは思えぬ活躍を見せ、わずか14才にして、並外れた戦術の才能の持ち主であることを知らしめました。

兄から家督を譲り受ける

1545年には、前年に続いて反乱が起こります。

この時長尾氏と戦ったのは、黒田秀忠という老いた武将でした。

彼は謙信の父・為景に信頼されていた人物でしたが、後を継いだ晴景が弱腰なのを見て、独立してその勢力を奪うことを企んだのです。

黒田秀忠は、晴景の本拠である春日山城まで攻め込み、謙信のもうひとりの兄・景康を殺害するほどの被害を与えています。

謙信はこの反乱に対し、兄に代わって総大将として討伐に向かいました。

そして黒田秀忠がこもる黒田城に猛攻を加え、これを攻め落として黒田氏を滅ぼします。

一度は降伏を許したのですが、その後、再び反乱を起こしたため、謙信には珍しく反乱者を抹殺することになりました。

こうして自分の弟を守れなかった晴景と、その敵を倒した謙信に対する評価には、決定的に差がつくことになります。

謙信は戦に強く、人を裏切ったり騙したりは絶対にしない、信義に厚い性格の持ち主でした。

このため、この人を擁立して越後をまとめ上げるべきだという思いを、国人領主たちが共有するようになっていきます。

1548年頃になると、謙信を当主に押し立てしようとする勢力が集結し、晴景に家督を譲るようにと迫ります。

晴景はこれに反発し、謙信との仲が険悪になりますが、やがて越後守護・上杉定実が調停し、晴景が隠居することで事態が収拾されました。

謙信は兄の養子となり、家督を受け継ぐことになります。

こうして謙信は血を流さずに、周囲に望まれる形で長尾氏の当主となりました。

越後の統一

家督相続から2年後、1550年に上杉定実が死去しましたが、後継者がおらず、越後守護家が断絶してしまいました。

この事態を受け、将軍・足利義輝が「長尾景虎が越後の国主である」と承認したため、謙信が越後守護を代行することになります。

つまり、公式に越後の支配者だと認められたのです。

しかし同年の12月には、一族の長尾政景が謙信に対して反乱を起こします。

長尾政景は謙信の姉・仙桃院の夫で、つまり謙信の義兄でした。

そして後に謙信の後を継ぐことになる、上杉景勝の父親でもあります。

このように謙信とつながりの深い人物だったのですが、長尾氏内部の氏族関係のもつれから、謙信と争うことになりました。

謙信はこれを受け、政景の居城である坂戸城を包囲し、翌年までには反乱を鎮圧します。

政景は降伏して助命され、以後は一門衆の筆頭として謙信に仕えることになります。

こうして長尾氏内での序列が定まり、越後は謙信の元で統一されました。

これは謙信が22才の時のことでした。

謙信は若くして一国の主となり、越後の武将たちを率い、求められるままに、その実力を世に示していくことになります。

【次のページに続く▼】