関東管領に就任
謙信は鎌倉を占拠した際に、上杉憲政から家督と関東管領職を相続しています。
そして名を上杉政虎と変え、正式に関東管領の地位につくことになりました。
上杉氏は足利家の外戚で、実力は失っていたものの、この当時では名門の家柄でした。
長尾氏はそれよりも一段下の家柄でしたが、謙信は家督を譲られたことで、より高い身分を手に入れたことになります。
父の為景は、謀略と戦いによって高い地位を得ようとして果たせませんでしたが、謙信は上杉憲政のために尽くすことで、平和的に地位を譲られることになりました。
どちらがよい、悪いという価値判断をここでするつもりはありませんが、謙信はそのような生き方をする人物だった、ということは特に記しておきたいところです。
第四次川中島の戦い
謙信はまたしても武田信玄に妨害されたことで、今度こそ決着をつけようと決意していました。
関東への出兵を成功させるには、信玄が北信濃への侵攻を諦めるよう、決定的な打撃を与える必要がありました。
あわよくば、信玄その人を討ち取ろうとも考えていたでしょう。
そのため、この4度目の対戦では、信玄が決戦をせざるを得ないように、思い切った作戦を取ることになります。
謙信はまず1万8千の兵を動員し、北信濃に進軍します。
そして途中の善光寺に5千もの兵を残し、残った1万3千の兵で前線へと乗り込みました。
そして武田信玄が築いたばかりの海津城の向かいにある、妻女山に布陣します。
この妻女山は、兵を動かしにくく、包囲されやすく、補給もしづらいという、本来は軍を配置してはいけない、死地と呼ばれる場所でした。
このことを柿崎景家や直江景綱などの重臣たちに指摘されますが、それをはねつけてこの場所への滞陣を続けます。
もちろん、謙信ほどの武将が不利な場所にいることを理解していないはずがなく、わざと自軍をそこに配置したのでしょう。
武田信玄は謙信の出陣を受け、2万の大軍を率いて海津城の救援に駆けつけます。
そして妻女山の向かいに布陣しますが、謙信が動かなかったため、いったん海津城に入城して作戦を練り直します。
武田信玄としては、謙信との正面決戦は避けたかったでしょうが、謙信の方が率いる軍が少なく、しかも不利な地勢に布陣していますので、これに攻撃をしかけないわけにはいきません。
この上なおも決戦を避けるのであれば、武田信玄は謙信を恐れる臆病な大将だ、という評判が立ってしまうからです。
そうなると、北信濃の豪族たちは武田信玄を頼りにならない相手だとみなして、見限るかもしれません。
こうした状況を見越した上で、謙信は軍を少数にし、不利な場所に陣取ったのだと思われます。
それに武田信玄は釣り込まれることになりました。
啄木鳥戦法
武田信玄は家臣の山本勘助や馬場信房に作戦を考案させ、軍を二手に分けて謙信を包囲殲滅する案を採用します。
別働隊1万2千に妻女山を攻撃させ、自身は8千の兵を率いて向かいの八幡原で謙信を待ち受けます。
そうして別働隊に追い出された謙信の軍を、本隊が待ち伏せして包囲するさまが、きつつきのエサ取りの様子に似ているとみなされたことから、「啄木鳥戦法」と呼ばれています。
謙信はこの武田軍の動きを、海津城の炊煙がいつもよりも増えていることから察知した、と言われています。
謙信は武田信玄がどのような作戦を取ってくるかを予測しており、それに対応するため、夜間に軍を妻女山から移動させ、八幡原へと向かいました。
このあたりの謙信の判断力は神がかっており、後に軍神と呼ばれるにふさわしいだけの力を見せています。
謙信は千曲川の渡河地点に、別働隊への抑えとして千人の兵を残すと、八幡原に進み、そこで布陣してしばし休息を取ります。
翌朝は霧が出ていましたが、これが晴れると、謙信と武田信玄は、互いの軍の姿が目に入りました。
謙信にとっては思い通りで、武田信玄にとっては衝撃だったでしょう。
こうして謙信と武田信玄の、ただ一度だけの決戦が開始されました。
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