鉄砲伝来によって生じた変化
日本は応仁の乱以降、各地で群雄が割拠し、勢力の勃興と滅亡を繰り返し、とりとめもない状況が続いていました。
そのうちに、各地に内政と軍事に優れた戦国大名たちが登場し、周辺の勢力を併合し、大大名と呼ばれる存在になっていきます。
具体的には、武田氏や毛利氏、北条氏といった大勢力が登場し、統一に向かって時代が動き始めていました。
鉄砲はそのような時期に日本に伝来し、統一の傾向を促進した兵器なのだと言えます。
鉄砲の伝来以前においては、各地に数百人程度の兵を率いる小勢力が、堅固な城塞によって割拠していましたが、鉄砲が登場したことで、彼らが独立を保つことは不可能となりました。
それまでの槍と弓矢しかない環境で、高地に城を構えてしまえば、大勢力であっても、容易にこれを攻め落とすことはできません。
しかし大勢力が鉄砲を数百、数千丁単位で用いれば、これを一方的に攻撃し、打ち負かすことが可能となります。
鉄砲はそれなりに高価なものであり、運用には弾丸と火薬も調達しなければなりません。
小勢力がそれを多数を揃えることは、財力的に不可能であり、経済力の差が、より戦闘力の差に直結するようになったのです。
この結果として、各地の小勢力は独立を維持できなくなり、大勢力に束ねられていく傾向が強まっていったのでした。
そしてその流れの果てに、信長や秀吉、家康による天下統一がなされたのだと言えます。
予算があれば、兵の強化が容易となった
弓矢はその威力を個人の腕力や技量に依存する武器で、生まれつきの素質や、訓練の量によってその強さが決まります。
このため、弓矢は訓練に専念できる環境を持つ武士でなければ十分に使いこなすことができず、専門的な技能だったのだと言えます。
しかし鉄砲であれば、一定の訓練を受ければ、誰でも平等に、強力な火力を用いることができます。
ゆえに鉄砲を揃えれば、長年の鍛錬と素質を要する弓兵よりも、より手軽に、強力な遠距離攻撃力を備えた兵団を手に入れることができるようになったのでした。
これは戦場における革命だと言えます。
この結果として、弓矢は戦場で用いられなくなり、鉄砲が取ってかわっていきます。
ある程度の訓練で操作が覚えられ、誰にでも優れた結果をもたらす道具が用いられるようになったことで、日本は中世を抜け出し、近代化に向かって足を進めたのだと言えるでしょう。
文明の発展という観点から見ても、鉄砲の伝来と普及は、日本の歴史にとって大きな意味を持っていたのでした。
火縄銃の特徴と欠点
ここからは伝来された鉄砲が、どのような種類のもので、どのように実戦に使用されたのかについて、書いていきます。
ポルトガル人たちが持ち込んだのは「火縄銃」と呼ばれた鉄砲で、現代のものと比べると、兵器としての弱点を多分に備えていました。
火縄銃を使用するにあたっては、まず火薬と弾丸を銃口から注ぎ入れ、カルカという専用の棒を使って、銃身の奥に押し込みます。
そして火皿に点火薬を入れ、火のついた縄を火挟に取り付けます。
それから標的に狙いを付けて引き金をひくと、火縄が火皿に降りて点火され、生じた火花が銃身内の火薬を燃焼させ、生じた爆発によって、弾丸がようやく発射される、という仕組みでした。
【火縄銃の構造】
引用元 コトバンク
さらに、何発かを発射するごとに、銃身内に付着した火薬のカスを取り除くために掃除をしなければならず、使用にはかなりの手間がかかるものでした。
このため、熟練した兵士であっても、一発を撃つのに数十秒を要したと言われています。
一発を撃つごとにそれだけの間が空いてしまうため、銃兵が最前線に立って撃ち合うことはできず、野戦においては補助的な役割を担うに留まっています。
それゆえに、戦国時代の主力の兵種は槍兵のままでした。
また、火縄を使うという性質上、雨が降ると使用できない、夜戦では火縄の光で敵から居場所が見えてしまう、などの弱点もあります。
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