欠点を補うための工夫
こうした欠点を補うため、武将たちは様々に工夫をこらし、鉄砲の利用価値を高めていきました。
有名なところでは、長篠の戦いで織田信長が用いたとされる「三段撃ち」の戦法があります。
この時に信長は、三千丁の鉄砲を持ち込み、それを千丁ずつ、三隊に分けて運用しました。
そして、それぞれの隊ごとに一定の間隔を設け、順次発射させることによって、射撃と射撃の間に生じる隙を少なくし、あたかも鉄砲が連射されているかのような状況を作り出したのでした。
例えば、一斉射ごとに一分の時間を要するとしても、それを三隊に分けて順番に射撃させれば、その間隔は二十秒ですむわけです。
そうして間隔を縮めることにより、敵が鉄砲隊に近づけないようにし、一方的に攻撃できるようにしたのでした。
信長はさらに、鉄砲隊を防衛するために塹壕を掘り、柵を三重に構えることで、精強な武田軍の突撃を防ぎきり、大勝をおさめたと言われています。
このようにして、鉄砲隊を複数に分けて運用する戦法は、信長の舅である斎藤道三か、あるいは信長の家臣・佐々成政が考案した、などの諸説があります。
これと類似した戦法は、16世紀の欧州でも用いられており、いずれも精強な騎兵団や槍兵団を鉄砲隊によって壊滅させ、勢力図を大きく塗りかえることに成功しています。
新兵器をうまく使いこなした者が覇権を握るのは、いつの時代も変わらぬ現象であるようです。
早合と雑賀衆の工夫
これ以外にも、九州の大友氏に仕えていた立花道雪という武将が、「早合」という工夫によって、火縄銃の速射性を高めています。
これは、あらかじめ一発分の火薬と弾丸をセットにした紙の包みを用意し、それを装填に用いる、というものでした。
それまでは火薬を目分量で注ぎ入れ、その上で弾丸を込めていたのですが、早合によってその手間がかからなくなり、装填が高速化されました。
この結果、従来の半分程度の時間で、弾丸を発射できたと言われています。
それ以外にも、鉄砲傭兵集団として知られる紀伊の雑賀衆は、一人の射手につき、数人の助手をつける方法を用いていました。
助手たちはそれぞれに鉄砲を持ち、火薬と弾丸を込める役割を担います。
そして射手が撃ち終わると、既に準備のできている鉄砲を渡し、撃ち終わった鉄砲を受け取って、火薬と弾丸を込めて次の射撃に備えたのです。
この方法によって鉄砲の速射性が高められ、特に石山本願寺の防衛戦において、攻め寄せる織田軍をおおいに苦しめたと言われています。
このように、欠陥の多かった火縄銃は、人々の知恵と工夫の積み重ねによって、実戦に使用できる有効な兵器となっていったのでした。
大鉄砲の登場
火縄銃には派生した兵器もあり、それは大鉄砲と呼ばれていました。
1570年代から記録に表れるようになっていますので、その頃に開発され、実用化されたのでしょう。
信長の事跡を記録した「信長公記」には、伊勢長島の一向一揆を攻撃する際に、大鉄砲を用いて城の塀や櫓を破壊した、という話が載っています。
また、長篠の戦いにおいて、長篠城の守将・奥平貞昌が、武田軍の攻城兵器を、巨砲を用いて破壊した、という記録もあります。
これらの事例から、火縄銃を発展させ、防衛施設や攻城兵器を破壊できるだけの威力がある、大口径の火砲が開発されていたことがわかります。
また、大鉄砲の他にも、騎兵が用いる馬上筒や、短筒という名の拳銃も開発されていました。
日本人は外から取り入れたものを、独自にアレンジして新しいものを作り出すのが得意だと言われていますが、この時代においてもそれは共通していたようです。
こうして戦国時代という環境の影響によって、火器の発展の歴史が刻まれていったのでした。
その後の停滞
こうして日本でも火器が普及し、あっという間に、当たり前にあるべき存在になっていきました。
最盛期には、日本全体で五十万丁の鉄砲が存在していたと言われており、これは世界的に見ても、当時としては最大規模であったようです。
当時の日本人は、非常に戦闘的な民族だったのだと言えます。
しかし、徳川家康が江戸幕府を開いて平和な世が訪れると、火器を発展させる必要がなくなり、長い停滞期を迎えることになります。
その後、日本が260年に渡って泰平の夢に浸っている間にも、欧州では戦乱の時代が続き、兵器は発展を続けていきました。
その結果として、幕末には隔絶した実力差がつくことになります。
日本は西洋諸国の植民地にされることを防ぐため、彼らの軍事力に追いつかなれければならないと、あわてふためくことになります。
長く続く平和にもまた功罪がある、ということなのでしょう。
そのあたりにまで触れていくと、「火縄銃の伝来と普及」という話題からは遠ざかりすぎますので、いずれまた、別の記事で書いてみようと思います。


