岡左内(岡野定俊)、蓄財に励むも守銭奴にあらず

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伊達政宗と一騎討ちをする

やがて上杉討伐によって、家康が大坂・京都といった政治の中心地から離れた機会を捉え、石田三成が家康打倒の兵を挙げました。

この結果、日本中で家康派の東軍と、反家康派の西軍に別れた闘争、すなわち「関ヶ原の戦い」が開始されます。

上杉氏は西軍に属し、東軍に属した東北の諸大名たちと戦いました。

そしていくつかの戦いの後、やがて会津征服をもくろむ伊達政宗が上杉領に侵攻してきます。

政宗はかつて会津を征服したことがありましたので、この機会になんとしてもこの地を取り戻したいと、野心を燃やしていたのです。

左内も政宗を迎撃する際に出陣し、伊達軍と戦いました。

この戦いでは双方の戦力が拮抗し、敵味方が入り交じった乱戦になります。

そして左内は戦場をかけめぐるうちに、やがて川の側で敵将と遭遇しました。

両者は馬を走らせ、水を散らしつつ一騎討ちを始めたのですが、武勇に秀でた左内は敵将を圧倒し、相手の刀を打ち折り、もう少しで討ち取れそうな状況になります。

すると敵将は馬をひるがえして逃げてしまいましたが、外見がみすぼらしかったので、左内は「さほど名のある将でもあるまい」と思って見逃します。

やがて左内は後に、敵将は伊達政宗その人であったと知り、「あと一太刀を浴びせて討ち取るべきだった」と悔やんだ、ということです。

「伊達男」の語源となった政宗ですが、この戦場では意外と質素な姿をしていたようです。

これに対し、左内は美々しくモダンな西洋甲冑を身につけており、装備だけなら、左内の方が身分が上に見えるような状態だったのでした。

借金を帳消しにする

結局のところ、この戦役は家康の勝利に終わり、上杉景勝は敗者になってしまいました。

そして120万石の領地を30万石にまで削られ、米沢に移転させられます。

このため、上杉氏の諸将たちは収入が4分の1にまで激減してしまい、左内にした借金を返すあてがなくなります。

そのうち左内が取り立てに来たらどうしようかと、上杉氏の武将たちの間では、これが重大な懸念になっていきました。

これを知った上杉氏の宰相・直江兼続かねつぐは左内の元を訪れ、この問題について相談します。

左内は事情を聞くと、「みなさんも領地を削られてお困りでしょうから、借金はすべて帳消しにしましょう」と答え、その場で証文をすべて焼き捨ててしまいました。

兼続は左内の義侠心あふれる措置に大変に感謝し、上杉氏の武将たちは胸をなで下ろした、ということです。

やがて左内は上杉氏を退転しますが、その際に兼続は「惜しい男を失った」と述べています。

蒲生氏に復帰し、キリスト教の布教に尽力する

その後、左内は再び会津の領主となった蒲生氏に復帰し、1万石の武将の身分を取り戻しています。

蒲生→上杉→蒲生と何度も主君を変えていますが、受け入れられたのは、それだけ左内に対する武将としての評価が高かったからなのでしょう。

左内は猪苗代いなわしろの城代の身分を得て、その統治にあたりました。

左内は熱心なキリスト教徒でもあり、このために教会やキリスト教徒たちの住まいを建造し、寄付するなどしています。

左内が西洋甲冑を持っていたのも、宣教師から贈られたからでした。

こうして豊富な資金を用いて思うままに生きた左内は、江戸時代の初期まで存命し、やがて世を去ったものと思われます。

亡くなった年も定かではないのですが、1万石の武将で、これだけ目立つ存在だったにも関わらず、生没年が不明だというのも不思議な話です。

やがて蒲生氏は改易かいえき(領地を没収)されてしまうのですが、その後、左内の子孫は青森県西部を支配していた津軽氏に仕え、明治時代になるまで家名を保った、ということです。