滝川一益 信長の軍団長として活躍した、知勇兼備の名将の生涯について

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次男の一時が大名になる

一益は秀吉の家臣となって戦いを始める前に、あらかじめ成否に関わらず、報償を受け取る約束をしていました。

このために敗れたものの、3千石の領地を与えられ、武将としての身分を取り戻しています。

また、次男の一時が1万2千石を与えられ、小規模ながらも大名になりました。

しかし敗戦の責任を取るために、長男の一忠が廃嫡された上で、追放処分を受けています。

秀吉の行動の遅さによって微妙な結果とはなりましたが、こうして一益は表舞台に返り咲いています。

東国外交を担う

その後の一益は、これもまた以前の経験を買われ、常陸(茨城県)の佐竹氏など、東国の大名たちとの外交を担うことになります。

1585年には、佐竹氏の家臣に対し、いずれ秀吉によって北条征伐が行われることを予告しており、北条氏への抵抗を継続することを呼びかけています。

かつて自分を討ち破って面目を失わせた、北条氏を牽制する仕事でしたので、ある程度のやりがいはあったかもしれません。

その死

こうして落剥しながらも、いくらかの身分を取り戻した後、1586年に一益は病死しています。

享年は62でした。

家督は次男の一時が継承しますが、後に家康に請われて豊臣氏から移籍し、徳川氏の家臣となっています。

これは蟹江城の戦いの際に一益や一時が奮戦したのが、家康の目に止まったためだと思われます。

また、家康は当時、東海地方の大名でしたので、近隣で起きた関東の事変について詳しく知っており、一益の北条氏との戦いにおける奮戦ぶりや、上野退去の際の潔いふるまいに対し、好感を持っていたのかもしれません。

こうして徳川氏の家臣となったことで、家康が天下を制した後も、滝川氏は存続することになりました。

一益の晩年の戦いも、無駄ではなかったことになります。

その後の滝川氏

その後、一時は2千石を加増されて1万4千石の領主となり、関ヶ原の戦いでは家康の本隊に属して戦っています。

戦後は徳川秀忠に仕えますが、1603年に病に倒れ、36才で死去しました。

この時に秀忠は、「勇者(一益)の子孫には特に扶助すべきであったのに、若くして世を去ったのは、なんとも不幸なことだ」と述べ、一時の死を惜しんでいます。

一益に対しては、秀吉よりも徳川氏の方が、高く評価していたようです。

一時の死後、後継者がまだ2才であったため、2千石にまで領地を減らされますが、滝川家は将軍家の旗本として、その後も存続していきました。

他にも三男の辰政(たつまさ)が、姫路の大名・池田輝政に仕えて3千石を与えられており、養子の忠征は、徳川御三家の尾張藩で6千石を与えられるなど、各地で大名の家臣としては、高い身分を得る事に成功しています。

滝川氏の一族は武勇に優れた人材が多く、このために各地で召し抱えられ、ほどほどに栄えることになりました。

一益の能力と限界

これまで見てきた通り、一益は陸戦も海戦もこなせ、戦いに強く、調略に長けており、武将としては優れた能力を備えていたことがわかります。

また、人柄は質朴で真面目であり、味方に対しては誠実に接していたこともうかがえます。

しかしそれだけに、政治的な立ち回りは苦手としており、広い視野を持って世の情勢を見定めることも、得意ではなかったようです。

そのために信長死後の混乱で没落し、数万の軍勢を率いる身分から転落してしまいました。

死後に次男の一時が徳川氏に取り立てられ、一益も高く評価されているのは、戦いに強く、性格が質朴なところが、徳川氏の家臣たちの性質と似通っており、このために理解されやすかったのだと思われます。

仕える主君が違っていれば、一益の生涯の結末も、ずいぶんと違ったものになっていたかもしれません。

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