本多忠勝 「天下無双」と呼ばれた戦国最強の武将の生涯

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家康の元で大名になる

家康と秀吉が和睦して小牧・長久手の戦いが終結すると、交渉の末に家康は秀吉の築いた政権に従うようになりました。

そして1590年に関東の北条氏が征伐されると、家康は関東に移封され、250万石の大領の主となります。

この時に家康の重臣たちの領地も大幅に増加され、忠勝は上総国(千葉県北部)の大多喜に10万石の領地を与えられています。

これは12万石となった井伊直政に次ぐ、二番目の領地の広さでした。

忠勝が上総に配置されたのは、安房(千葉県南部)を支配する里見氏に備えるためであったと言われています。

ちなみに、榊原康政もこの時に同じ10万石の領地を上野(群馬県)に与えられ、こちらは上杉氏と真田氏に備えています。

真田信幸の舅になる

一方、家康が秀吉の傘下に入ったことで、それまで敵対関係にあった信濃の大名・真田昌幸が与力として徳川氏の指揮を受けることになりました。

この際に家康は真田氏との関係改善のため、忠勝の娘・小松姫と、昌幸の嫡男・信幸を結婚させようとしますが、昌幸にはねつけられてしまいます。

家康の家臣でしかない忠勝の娘とでは釣り合わない、というのがその理由でしたが、忠勝からすれば失礼な話ではあります。

これは昌幸が、家康の家臣の娘と自分の長男を結婚させることで、徳川氏から真田氏が格下扱いされることを嫌ったためでした。

結局は家康が折れ、小松姫を家康の養女にして、その上で信幸と結婚することになりました。

こうして、忠勝は信幸の舅となり、真田氏と血縁関係を持つことになります。

この措置が、後に真田氏が関ヶ原の戦いにおいて、親子で陣営を分けることにもつながっていきます。

関ヶ原の戦いで最後の活躍を見せる

天下人となった秀吉の死後、1600年になると、家康と石田三成の間で、天下の支配権をめぐる「関ヶ原の戦い」が発生します。

この時に忠勝は家康の本軍に属し、井伊直政とともに東軍に所属した大名たちを監督する立場につきました。

本多隊は嫡男の忠政が率い、中山道を進む徳川秀忠隊に所属したため、忠勝自身の率いる兵は数百程度にとどまっています。

しかし忠勝はこの兵数でも数万の軍勢がぶつかり合う戦場で活躍し、90もの首級を取る働きを見せています。

この武功を東軍に属した福島正則に賞賛されますが、忠勝は「采配が優れていたのではなく、敵が弱すぎたのだ」と語っています。

歴戦の忠勝にとっては、天下分け目の戦いであっても、さほどの難戦ではなかったようです。

関ヶ原では戦場での働きだけでなく、西軍の武将の寝返り工作にも携わり、家康の勝利に大きく貢献しました。

昌幸と信繁の助命嘆願を行う

先にも少し触れたとおり、関ヶ原の戦いでは、真田昌幸と信繁(幸村)親子が西軍に、忠勝の娘婿の信幸が東軍に属するという形になりました。

どちらが勝っても生き残れるように、という意図だったと言われていますが、信幸が本多家と関わりが深くなっていたことが、彼が東軍に所属する決意をするのに影響したと思われます。

こうした経緯があったため、戦後になって家康は、敵対した昌幸と信繁を処刑しようとします。

しかし信幸と忠勝が強く助命嘆願を行ったため、家康はやむなく両者を紀州の九度山への配流とする減刑を行いました。

この忠勝の動きから、本多家と真田家のつながりが深くなっていたことがうかがえます。

家康は何度も昌幸に煮え湯を飲まされていたため、できれば処刑したかったでしょうが、信幸だけならともかく、長年自分に尽くしてきた忠勝の言葉はむげにできなかったようです。

このことが、後に「大坂の陣」で豊臣秀頼に信繁が味方し、家康に危険をもたらす結果を生むのですが、この時点では誰も予測ができないことでした。

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