肥後半国の大名となる
1587年に九州の平定が完了した後、肥後は佐々成政という武将に任されていました。
しかし成政は統治に失敗して大規模な国人領主たちの一揆を発生させてしまい、この責任を追求されて切腹しています。
この一揆は周辺の諸大名が総動員されて大軍を送り込み、ようやく鎮圧されたほどに激しいものでした。
一揆の平定後、秀吉は肥後の北半分を清正に、南半分を小西行長に与えています。
これによって清正は一躍19万石の大名になりました。
おおよそ5千の兵を従えるほどの立場に立ったことになります。
清正は一揆の平定後、上使(秀吉の使い)として派遣されて現地の掌握に当たっており、そのあたりの実績を考慮されたものと思われます。
この頃に秀吉は、子飼いの武将たちに20万石前後の領地を与え始めており、その一環として清正らを大名にした、ということでもあるのでしょう。
肥後は領主たちの独立意識が高く、統治しづらい土地として知られていました。
このため、秀吉は清正や行長らの手腕を評価し、期待をかけていたことになります。
1589年には天草で国人領主たちの一揆が発生しますが、清正はこれを短期間で鎮圧し、秀吉の期待に応えています。
熊本城を築城する
清正は肥後の統治が安定してくると、1591年から隈本(くまもと)城の改築を開始しています。
この工事は1600年代まで続いた長期のものとなり、大規模かつ堅牢な城塞として構築されていきました。
清正が朝鮮の築城で培った技術も導入され、「武者返し」と呼ばれる、上に行くほど急勾配になっていく石垣の構造が特徴となっています。
これは明治維新後の西南戦争の際に効果を発揮することになり、西郷隆盛が率いる薩摩軍の攻撃を防ぐことに成功しています。
熊本城は南の島津氏に備えて築城されたのですが、270年もの時をへて、清正の工夫が活きることになりました。
清正は1606年に城の完成を祝い、隈本を「熊本」に改名しています。
改名の理由は「そちらの方が勇ましかろう」というものだったようです。
こうして現在でも用いられている、熊本という地名が誕生しました。
治水工事や干拓を行う
清正は肥後において多数の治水工事や干拓事業を行っています。
白川や坪井川の流れを変更し、熊本城の堀として活用すると同時に、川の氾濫を防ぐ設計を行いました。
また、熊本平野や八代平野で干拓や堤防の整備を行い、沿岸地帯での農作物の栽培を可能にしています。
それ以外にも大河川に堤を築いて治水を進め、大規模な穀倉地帯の形成に成功しました。
これらの事業はいずれも農閑期に行われ、きちんと給金が支払われており、このために領民たちにとっては負担になるものではなく、この善政によって清正は高い支持を得ていくことになります。
馬場楠井手(ばばくすいので)を構築する
肥後は火山灰が降り積もるため、土砂の堆積によって水量の変動が激しくなりがちで、安定した農業用水の確保が困難な土地柄でした。
これを解決するため、清正は「馬場楠井手」という農業用水路を建設しています。
これは高低差のある2本の用水路を用意し、水を行き来させることで増水時にも渇水時にも水量を維持する仕組みを備えさせた、先進的な工作でした。
さらに「鼻ぐり」という堆積物を蓄積させない機構をも備えており、これによってメンテナンスの必要をなくし、業用水の安定確保に成功しています。
清正が作ったこの用水路は、現在でも活用されています。
清正はこのような工夫を得意としており、工事の名人とも呼べる人物でした。
こういった諸政策によって、肥後の農業生産力は飛躍的に高まっていきます。
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