加藤清正 熊本城を築いた「清正公さん」の生涯について

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帰国

1598年に秀吉が死去すると、唐入りは中止され、清正らは日本に帰国することになります。

この時に三成が九州で諸将を出迎え、「上洛した際には茶席をもうけてねぎらいたい」と発言しますが、かえって大きな反発を買ってしまった、という逸話があります。

三成は諸将から自分がどう見られているか、自覚がなかったようです。

大きな負担を課せられて数年に渡って戦い続けたあげく、何も得られるものがなく、それどころか不当に処分を受けたことで、諸将の間では不満が高まっていました。

清正も重い負担に苦しめられており、領国ではそれを担わされた農民たちの逃亡が多発していました。

国内外で行っていた農作物の投機売買によって財政の再建を図りますが、秀吉の死後に政治情勢が激動するようになり、清正は腰を落ち着ける間もなく、対応に追われることになります。

家康への接近

秀吉の死後に徳川家康は派閥の形成に勤しむようになり、清正にも接近してきます。

この頃には清正の正室が死去していたため、家康の養女を継室として娶ることにし、その関係を強化しています。

家康は他にも伊達政宗らの有力な諸侯と縁戚関係を結んでいきますが、これはかつて秀吉が定めた、「大名同士の婚姻を禁止する」という命令に反していました。

この家康の専横に、豊臣政権の重鎮である前田利家が反発するようになり、公然と対立するようになります。

この時に諸将はそれぞれの大坂屋敷に詰めて対立するのですが、清正は利家の屋敷に駆けつけています。

清正はかねてから歴戦の勇士である利家のことを尊敬しており、家康の娘婿という立場より、個人としての感情を優先したようです。

清正は軍事にも内政にも優れた人物でしたが、政治的な配慮を苦手としており、それがこの行動にも現れています。

この時の騒動は、家康と利家が互いの屋敷を訪問し、秀吉の遺命を守るという誓紙を差し出すことで収まりました。

しかし利家は間もなく病死し、今後は清正らが事件を起こすことになります。

七将による石田三成の襲撃事件

1599年になると、蔚山倭城の戦いの査定に不満を抱いていた清正や福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長ら7人の武将が結託し、石田三成を襲撃する事件を起こします。

両者の間の争いを抑えていた利家が亡くなったことで、歯止めが効かなくなったのが原因です。

彼らは大坂にある清正の屋敷に集合し、そこから三成の屋敷を襲撃して討ち取る計画を立てました。

これは豊臣秀頼の近臣から通報され、三成は親しい間柄である佐竹義宣の屋敷に逃れます。

やがて三成が逃げたと知った清正らは、各大名の屋敷を捜索しました。

このため、三成は佐竹義宣の屋敷から逃れ、伏見城に立てこもります。

清正らはそれを知って伏見城を包囲しますが、やがて家康が仲裁に入り、両者の間を取り持とうとします。

清正らはこの時に三成の身柄の引き渡しを要求しますが、家康によって拒絶されています。

その代わりに、三成を引退させること、蔚山倭城の防衛戦における不公正な査定を見直すことを約束し、清正らの気をおさめさせました。

これによって清正ら七将は家康に恩を受けたことになり、以後はその味方として行動していくことになります。

庄内の乱への関与

この頃に、清正の領国の南に隣接する薩摩では、大規模な内乱が発生していました。

薩摩を支配する島津氏の重臣に、伊集院忠棟(ただむね)という人物がいたのですが、主家との関係が悪化し、やがて島津忠恒によって殺害されてしまいました。

これを受け、忠棟の嫡子・伊集院忠真(ただざね)が島津氏に対して反乱を起こします。

島津氏の当主・義久らは討伐軍を派遣しますが、忠真の抵抗は激しく、容易に鎮圧できませんでした。

この時に家康が豊臣政権の宰相として事態の収拾にあたっていたのですが、清正はこの時に反乱勢力である忠真と連絡を取っており、支援する姿勢を見せていました。

家康からすれば反乱を長引かせる背信行為であり、これが判明すると、清正を激しく叱責します。

清正は忠真から父の敵討ちのために手助けをして欲しいと請われ、そのために同情心を抱いて支援する姿勢を見せていたようです。

このあたりの動きにも、清正の情に流されやすい性質が浮かび上がっています。

先の利家と家康の抗争の時も同じでしたが、清正は冷徹に情勢を判断し、政治的に立ち回ることを苦手にしていました。

家康は清正の上洛を禁止し、もしも強行しようとした場合には、九州の大名・有馬則頼に阻止するように命じるなど、厳しい措置を取っています。

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