加藤清正 熊本城を築いた「清正公さん」の生涯について

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地震加藤

その後の清正はしばらくの間、表立った活動をすることができなくなっていました。

やがて1596年になると、京都付近で大きな地震が発生し、秀吉の居城である伏見城も大きな被害を受けます。

この時に清正は秀吉の元にいち早く駆けつけ、救助活動を行ったため、秀吉の勘気が解け、ようやく許された、という逸話があります。

これは史実ではなかったという説もあるのですが、この頃には秀吉の怒りが薄れ、再び清正を用いる気になっていたのは確かなようです。

翌1597年から、休止状態となっていた唐入りが再開されますが、清正は右軍の先鋒として、再び朝鮮半島に赴くことになります。

小西行長との対立と、朝鮮での活躍

この頃には小西行長との対立が深刻なものとなっており、行長は敵将の李舜臣(りしゅんしん)に対し、清正の上陸地点を知らせることまでしています。

そうして清正を討たせようとしたのですが、李舜臣がこれを罠だと判断して海軍を動かさなかったため、無事に上陸することができました。

これは完全に利敵行為であり、この時の日本軍には、内部に深刻な亀裂が発生していたことがうかがえます。

行長とはかねてより領地の境界を巡る係争を抱えており、先の和平交渉の際に対立したこともあって、その関係は完全に破綻していたようです。

清正は行長のことを「薬屋の小倅(こせがれ)」と呼んで嘲ったことがあり、それを根に持たれていた、という事情もありました。

ともあれ、清正は再度の上陸を果たすと、朝鮮半島の南西部・全羅道に進軍し、黄石山城を攻略します。

そして次々と朝鮮軍を討ち破り、全羅道の道都・全州の占領にも成功し、順調に作戦を進めていきます。

この時の朝鮮への侵攻は、半島の南半分を抑えて各地に城を築き、恒久的な支配体制の構築を目指すものでした。

清正は引き続き、朝鮮半島の中央部にある忠清道にも進軍して敵を追い払い、当初の戦略目標を達成します。

蔚山倭城の防衛戦

その後、清正は全羅道に戻り、蔚山倭城(うるさんわじょう)の守備を担当しました。

この城の完成が迫った頃、明・朝鮮の連合軍5万7千が来襲し、城に攻め寄せてきます。

この頃には清正の武勇は明や朝鮮にも知れ渡っており、清正を捕らえれば日本軍の士気をくじくことができるだろうと、大軍を差し向けてきたのです。

清正は他家の軍勢も合わせて1万の兵力で籠城し、水も食糧も乏しい中、10日に渡って防戦を行います。

そして味方の救援がやってくるまで耐え抜きました。

城内には鉄砲が豊富に配備されており、その火力をもって敵を撃ちすくめ、逆に敵の士気を下げることに成功しています。

不利な状況下でも、清正の指揮によって将兵たちは存分に働き、明軍の攻勢を寄せ付けませんでした。

やがて毛利秀元や黒田長政らの率いる1万3千の援軍が到着し、明軍への攻撃を開始します。

これに呼応して城の防衛についていた清正らの部隊も討って出て、多数の敵兵を討ち取りました。

毛利軍の将・吉川広家が敵の退却路を塞いだことも功を奏し、この戦いで明・朝鮮連合軍の兵2万を討ち取るという戦果を上げています。

こうした活躍によって、清正は朝鮮で「鬼上官」と呼ばれて恐れられるようになりました。

不公正な査定

日本軍はこのようにして大勝利を収めたのですが、しかしこの戦いに関わった諸将たちが処罰されるという、奇妙な事態が発生します。

この時に秀吉は軍目付という役目を設け、朝鮮の武将たちの働きを観察させ、自身に報告させていました。

そして軍目付の福原長堯(ながたか)が、「最初に明軍が攻撃をしかけてきた際に、蜂須賀家政や黒田長政が応戦しなかった」と秀吉に報告したことから、両者は謹慎を命じられています。

それだけでなく、清正らも叱責処分を受けており、この不公正な処分に激しい不満を抱くことになります。

また、総大将の小早川秀秋も追撃戦で大きな戦果を上げていましたが、なぜか筑前(福岡県)の領地を没収の上、半減されて転封されてしまうという、重い処分を受けています。

福原長堯は三成の縁者であり、このため処分は三成が主導して進めているのだろうと、清正らは疑いを抱くようになりました。

この時に、没収された小早川秀秋の領地を三成に与えるようかという打診が秀吉から持ちかけられており、それが疑いを深める要因になりました。

三成はこれを断っていますが、同地の代官には就任しています。

こうして朝鮮半島で戦っている武将たちと、軍目付たちとの関係が極度に悪化していきます。

後にこの処分は秀吉の死後、徳川家康によって撤回されており、これが関ヶ原の戦いにおける武将たちの動向に大きく影響することになります。

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