加藤清正 熊本城を築いた「清正公さん」の生涯について

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肥後の整備

関ヶ原の戦後にも清正は熊本城の改築を続けており、工事は1610年まで続きました。

この間に天守や本丸御殿を建築し、見栄えや居住性にも配慮した建物を作り終え、城を完成に導いています。

また、肥後一国の支配者となったため、小西領との境に築いた支城を廃棄するなどして整理し、最終的には7つの支城を設けて統治体制を確立しました。

一方で、それらの城に配置した武将たちには独立した統治権が与えられており、これが後に肥後の統治に困難を来す原因にもなっていきます。

清正は引き続き開拓事業も積極的に行い、長い戦乱のために疲弊した領国の立て直しを行いました。

天下普請への参加

幕府を開いて公権力となった徳川氏は、諸大名たちに「天下普請」への参加を命じるようになります。

天下普請とは、諸大名の労力と費用によって、徳川氏の城と城下町を整備するというものでした。

これによって徳川氏の領地を発展させ、同時に諸大名の力を削減できるという、幕府にとっては一石二鳥の政策でした。

幕府の命を受け、清正は江戸城や名古屋城などの建築に参加しています。

名古屋城の建築には福島正則も参加していたのですが、ある時「家康自身の城ならともかく、妾の子の城の建築までやらされるのはかなわん」と愚痴を言います。

名古屋城は家康の九男・義直の城で、彼は側室の子だったのです。

これを聞いた清正は、「不満があるなら国元に戻って戦の支度でもするのだな」と言ってたしなめました。

もはや強大化した徳川氏に逆らうのは困難になっており、命令には素直に従った方がいい、というのが清正の認識でした。

この頃には冷徹に世の実情が見れるようになっており、政治的な感覚も養われていたようです。

清正は朱子学という、忠義の道を説く学問を学ぶなどして、平和な時代に自分のような武将がどのように身の置き所を定めるべきかを探求していました。

清正は天下の安寧と自家の存続のため、徳川氏に忠実であろうとしましたが、同時に豊臣氏の家臣としての意識も強く残しており、このために苦慮することになります。

清正はそういった悩みの中から自分のやるべきことを考え抜き、やがて徳川氏と豊臣氏の関係の改善に取り組んでいくようになります。

淀殿と家康の軋轢

豊臣氏の当主は秀頼でしたが、実質的にはその母の淀殿が大坂城を支配していました。

淀殿は豊臣氏が徳川氏に臣従することを認めず、秀頼が成人した以上は、政権を返すべきだという考えを持っていました。

これは秀吉の遺言によってそう定められていたため、淀殿はこの点にこだわっていたようです。

しかし徳川氏の実力はもはや豊臣氏の比ではなく、諸大名たちも従順になっており、淀殿の望みは実現性の低い夢でしかありませんでした。

このため、豊臣氏と関係の深い大名たちは、淀殿にかつての栄華はあきらめ、家康に臣従するようにと促します。

清正の他、福島正則や浅野長政ら、豊臣氏と血縁のある大名たちが中心となって運動し、豊臣氏の重臣・片桐且元もこれに加わりました。

そして家康と秀頼の対面を拒み続ければ、やがて戦いになる可能性もあると淀殿に告げ、ついに京都の二条城での対面を実現させることができました。

この時に清正は秀頼に肩入れしていると思われぬよう、家康の十男・頼宣の護衛役として会見に参加しています。

頼宣は清正の次女・八十姫と婚約しており、これが名分となりました。

そして無事に家康と秀頼の会見が終わると、清正は秀頼と一緒に秀吉を祀った豊国神社に参詣し、見送りにも随行しました。

こうして清正は両家の橋渡しの役を勤め上げ、対立の緩和に尽力しました。

これがきっかけとして関係を改善し、豊臣氏が徳川政権下で存続できる道を作っていくつもりであったと思われます。

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