大御所として
将軍位を譲ったと言っても、家康はまだ引退するつもりはなく、大御所(隠居した将軍の敬称)として政治を執り行っていくことになります。
そして秀忠が東国の諸大名へ対応し、家康が西国の諸大名への対応するという、二重体制を敷きました。
西国には毛利や島津といった関ヶ原の戦いで降した大名や、加藤や福島、浅野といった豊臣家との関係が深い大名が存在しており、東国よりも統治が難しい状況にありました。
このため、経験豊富な家康が西国を担当することにしたのです。
もちろん、その役割の中で大きなものが、豊臣家への対応でした。
家康が果たしてこの時から豊臣家を滅ぼすことを狙っていたのか、それは定かではありません。
秀忠の娘・千姫と秀頼が結婚しており、秀頼は家康にとって義理の孫という立場にもあります。
しかし家康はそうした関係性によって政治的な判断をする人物ではないので、この政略結婚が家康の思考に影響を与えることはなかったでしょう。
ともあれ、この後しばらくは、徳川家と豊臣家の関係は膠着状態が続きます。
その間に家康は年老いていき、秀頼は成長していくことになります。
二条城の会見
【豊臣秀頼の肖像画】
徳川家の権威は日を重ねるにつれて増大していき、それに危機感を覚えたのが、加藤清正、福島正則といった豊臣家と関係の深い大名たちでした。
彼らは子供の頃から秀吉に仕えて成人しており、今ではそれぞれ50万石もの領地を持つ大大名の地位にありました。
それでも400万石の領地と金銀の産地・貿易港などを領地に持つ徳川家に対抗できるような力はありません。
これは65万石の一大名でしかなくなっていた豊臣家にしても同様です。
このため、彼らは豊臣家が滅ぼされぬよう、徳川家との融和を進めていくべきだと判断します。
そして豊臣家と縁戚関係にある大名・浅野長政も加えて、秀頼と家康の会見を実現するべく奔走します。
その結果、1611年に京都の二条城にて、会見を実施することができました。
この時の家康は71才で、秀頼は18才でした。
このため、家康は秀頼の若さを目の当たりにして自分の老いを実感し、今のうちに滅ぼしておくべきだと考えた、という俗説があります。
しかし、家康には秀忠という立派な後継者がいますし、他にも子供は数多く、若さに脅威を感じる必要はさほどなかったでしょう。
しかしながら、加藤清正や福島正則らが豊臣家のために奔走した状況をみるに、いまだ豊臣家に求心力が残っていることは再確認できました。
どちらかと言えば、こちらの方が豊臣一党滅ぼすべし、と家康に決意させた要因だったように思えます。
徳川の統治に問題が起こった際に、隙あらば彼らが豊臣家の人間を旗印として担ぎ出し、徳川に恨みのある毛利・島津といった大名と結託し、関ヶ原の戦いにおける「西軍」のような反徳川勢力を再結成する可能性は、十分にありました。
(これははるかに時代を下った江戸末期に実現しています)
徳川政権もまだできたばかりの状態で、何がきっかけで屋台骨がゆらぐかわかったものではありません。
それに、秀忠は政治家としては優秀な人物でしたが、軍を率いて戦う能力も経験も乏しく、このあたりも家康にとっては不安要因だったことでしょう。
そのため、いまだ徳川家と対等の立場を持つ唯一の存在である豊臣家は、やはり自分が生きているうちに滅ぼしておかなければならない、と家康は決意したのだと思われます。
かつての主家を滅ぼす覚悟もこの時に決めたことでしょう。
家康はすでに三河一国の大名だった頃に、かつての主家である今川家を滅ぼしたことがあり、身分の入れ替わりの激しい戦国の世を生きてきた人物ですから、この決断には、さほどのためらいはなかったと思われます。
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