大坂冬の陣
最初の対決は、1614年11月から行われたため、「冬の陣」と呼ばれています。
家康は徳川家と関係の深い大名たちに動員をかけ、20万という大軍で大坂城を攻撃します。
福島正則には江戸の留守居役を命じ、戦闘には参加させませんでした。
正則はこの頃には仲間を失って孤立しており、もはや徳川家に逆らえる状況にはなく、おとなしく命令に従っています。
他にもいくつかの秀吉に引き立てられた大名家が残っていましたが、救援を求められても豊臣方につく者はいませんでした。
この事態に、徳川家の支配体制が定着しつつあったことが示されています。
大坂城に集まったのは、関ヶ原の戦いが原因で、すでに領地を失っていた浪人たちばかりで、その中には真田信繁や毛利勝永、長宗我部盛親などの武将が含まれていました。
この時点ではまだ大坂城は広い堀を備えていたために防御が固く、力攻めをするのは難しいため、周辺にある砦を攻め落としつつ、包囲するにとどまりました。
前田家の軍勢が真田信繁が守る出城(真田丸)に攻撃をしかけ、大敗するという事件もありましたが、大勢に影響を及ぼすほどではありません。
ちなみに、この時に手こずったことで「家康は城攻めが苦手だった」という説が立てられますが、堅固な城を攻め落とすのはどんな武将にとっても難しく時間がかかるものであり、特に家康が城攻めが苦手だったという証拠はありません。
一度手出しをし、やはり直接攻撃をしかけるのは難しいとみて、家康は大砲を設置させ、大坂城に砲撃を加えて豊臣陣営にゆさぶりをかけます。
この時の砲撃が秀頼の母・淀殿の侍女の命を奪い、これを淀殿が恐れて和睦が早まったとも言われています。
和睦と堀の埋め立て
この和睦の際に、城の外周を囲う外堀のみを埋めることが条件になるのですが、家康はこの約束を平然と破ってしまいます。
外堀だけでなく内堀をも埋めてしまい、大坂城の防御力を奪います。
家康はこの戦いでは汚名を着ることになろうとも豊臣家を滅ぼすと決め込んでいたらしく、先の方広寺での交渉の件といい、自身の名声に傷がつくことを恐れぬ所業が目立っています。
この2年後に死去していますし、死が迫っていることを感じていて、焦りもあったのかもしれません。
後世から家康は何かと批判されることも多かったのですが、その主な原因は大阪の陣前後の家康の、こうした乱暴な振る舞いにあったと言えるでしょう。
権力者は老いると横暴になりがちですが、家康にもその兆候が見られたのかもしれません。
ともあれ、こうして大坂城は丸裸になり、ついに家康は豊臣家を滅ぼせる状況を、強引にこしらえあげました。
大阪夏の陣
豊臣家はこの家康の横暴に対し、内堀を掘り起こすという行動で対抗しようとします。
しかしこれは家康にさらなる口実を与えることになります。
家康は内堀を掘り返し始めた豊臣家に、和睦したにも関わらず戦争の準備をしている、と指摘し、大坂に集まっている浪人衆を追放し、豊臣家は領地を捨てて関東に移動するようにと要求します。
そもそもは家康が約束を違えて内堀を勝手に埋めてしまったことが原因なので、これは完全に言いがかりでした。
しかしこの頃には、こうした家康の振る舞いを咎められる者は誰もいませんでした。
そして1615年4月、家康は兵を大坂城周辺に送り込み、要求が拒絶されると再度侵攻を開始します。
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