小田原評定
この頃の小田原では、秀吉に降伏するか、徹底抗戦をするかで議論が行われていましたが、一向に結論が出ず、論争は一ヶ月近くにも及んでいました。
これが後世から、「かの小田原評定」と呼ばれ、その益体のなさを揶揄されることになります。
北条氏は氏政とその兄弟たち、氏照、氏邦、そして氏規がそれぞれに役割を持ち、合議制によって運営されていました。
関東で格下の相手とのみ戦っている場合には、それでも機能していたのですが、秀吉に臣従するや否や、降伏するや否や、といった勢力の命運を決する重大な議論になると、意見がまとまらず、いつまでも結論が出ないという状態になりがちでした。
このことが、いたずらに状況を悪化させ、ついには北条氏の滅亡を招いてしまったのです。
いざという時に、すっぱりと決断ができない組織は、必ず滅ぶ運命にあります。
劣勢に陥った時に、被害を最小限に食い止めることができなくなるからです。
このあたりは太平洋戦争末期の、日本政府のありさまによく似ています。
氏直が出頭し、ようやく降伏と決まる
最終的には当主・氏直が降伏すると決断し、7月5日になると、交渉相手になっていた織田信雄の陣に出頭し、自分の命と引き換えに将兵の助命を求めました。
【降伏を決断した氏直の肖像画】
秀吉は、潔く決断した氏直は助命したものの、いつまでもぐずぐずしていた氏政と、主戦派の氏照には切腹を命じます。
氏規はこうして力及ばず、兄弟たちを救うことはできませんでした。
氏規の意見をもっと重視していれば、滅亡せずにすんだだけに、氏規には無念なことだったでしょう。
氏規は、氏政や氏照を介錯すると、自らも腹を切って自害しようとしますが、周囲の者たちに制止され、死ぬことはできませんでした。
秀吉に召し抱えられる
その後、氏規は氏直に従って高野山に登り、そこで謹慎をしています。
やがて氏直が病死すると、氏規は罪を許され、河内に2千石の領地を与えられました。
そして1594年には狭山城主となり、7千石に加増されています。
氏直が死んで北条氏の嫡流が絶えたのと、氏規が秀吉への臣従を主張していたことを考慮して、氏規を取り立てることにしたのでしょう。
死後、大名となって北条氏が存続する
氏規はその後、関ヶ原の戦いが発生する直前の1600年の2月に、55才で死去しました。
氏規には氏盛という子がおり、父とは別に、秀吉から4千石の所領を与えられています。
氏盛は父の死後、家康から領地の相続を認められ、合計で1万1千石の大名となっています。
こうして狭山藩が成立すると、明治維新の時まで存続しました。
結果として、氏規の家系が小さくはなりながらも、北条氏の名跡を継承することになったのでした。