秀吉を激怒させる
戦場での働きとは別に、康政の名を世に知らしめたのが、この時期に康政が発した秀吉への弾劾文でした。
その内容は、「秀吉は低い身分だったが、信長公に取り立てられて武将になった。しかしその恩を忘れて信長公の子を殺害したり、敵対したりしている。これは非道な行いである。我が主君である家康は信長公と親しくしており、義を重んじているから、信雄公(信長の三男)を助けるために立ち上がったのだ」というものでした。
康政は小牧に立て札を立て、この文章を秀吉に見せつけ、それに加えて敵味方の諸将にも送ります。
すると内容を知った秀吉は激怒し、「康政の首を取ったものには10万石の領地を与える」と宣言したのでした。
つまり康政を討ち取れば、すぐに大名にまで立身できることになります。
それほど秀吉が怒ったのは、康政の指摘に痛いところをつかれたからでしょう。
康政は書に長けており、このために家康の代筆をすることもあった、と伝わっています。
秀吉と会った際には称賛される
その後、秀吉と家康は和睦しましたが、やがて康政は使者として上京し、秀吉に会うことになります。
厳しく非難した相手と面会したわけですが、その席で秀吉は怒ることはなく、「そなたの志はあっぱれだ」と言って康政を称賛しました。
そして康政の通称である「小平太と呼んでもいいか?」とたずね、「家康はそなたのような家臣を持っていてうらやましい」などとも述べ、親しげにふるまいます。
さらには従五位下・式部大輔の官位を贈るとも告げ、康政を歓待しました。
こうすることで秀吉は康政を、自分の度量を世に見せつける相手として利用してしまったのでした。
秀吉の方が、役者が一枚上手だったと言えるでしょう。
ともあれ、こうして康政はさらに出世することになりました。
10万石の大名となる
その後、1590年に秀吉は関東の北条氏を討伐しましたが、その領地と隣接する家康は、討伐軍の主力を務めることになります。
康政はこの戦役で先手を任され、小田原城を包囲したり、本多忠勝らとともに房総方面の城の攻略にあたるなどしました。
やがて北条氏が降伏すると、家康は関東に移封され、250万石の大大名になります。
この時、康政は上野(群馬県)の館林に10万石の領地を与えられ、大身の身分となりました。
これは井伊直政の12万石につぐ、家中で第二位の評価です。
また、本多忠勝は同格の10万石でした。
これにより、当時の家康の重臣の中でも、直政が最も重んじられており、康政や忠勝はそれに次ぐ存在だったことが表されています。
このあたりの扱いの差は、それぞれの子孫たちの境遇にも影響を及ぼしました。
井伊氏はその後も家臣筆頭として、幕末にいたるまでたびたび老中や大老を輩出していますが、榊原氏や本多氏がそういった地位につくことはほぼありませんでした。
井伊直政との関係
井伊直政は1561年の生まれで、康政や忠勝よりも13才年下でした。
直政もまた2人と同じように、最初は家康に小姓として取り立てられ、それから指揮官として起用され、立身を遂げています。
1582年に武田氏が滅ぼされると、やがて家康が甲斐と信濃の領主になりました。
すると家康は旧武田の家臣団を集めて精鋭部隊、いわゆる『赤備え』を結成し、その指揮官に直政を任命します。
康政は自分がその地位につきたかったようで、この措置に怒り、「直政と刺し違える」とまで述べて激昂しています。
似たような経歴を持つ、自分よりも年下の相手が家康から厚遇されるのは、我慢がならなかったのかもしれません。
この時は年長の酒井忠次に諭されてあきらめていますが、康政は直政のことをライバル視していたようです。
直政の能力を認めてもいた
しかし康政は直政を嫌っていたわけではなく、むしろその能力を高く評価していました。
「家康様の心中を知るのは、直政と自分だけだ」と述べていたりもします。
また、戦いにおもむく際には、直政も一緒に従軍すると知ると康政は安心していた、という挿話もあり、直政を信頼していたことがうかがえます。
江戸や領地の整備を行う
徳川氏による関東の経営が始まると、康政は普請も得意としていましたので、関東総奉行に任命されました。
そして江戸城の整備・修築などを担当します。
また、領地となった館林の街道や堤防の整備を行い、発展のための基盤作りを行いました。
この時期の秀吉は朝鮮半島への討ち入りを行っており、各地の大名たちが動員されて戦っていました。
しかし徳川氏は国内の守りを担当するという趣旨で居残り、領地の整備に力を入れています。
このため、康政もまたこの時期は、普請事業に励むことになったのでした。
徳川氏にとっては、しばしの平和な時が訪れていたことになります。
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