家康へのとりなしを行う
家康は秀忠の遅参に激怒し、顔を合わそうともしませんでした。
そこに、康政がとりなしをしたことでなんとか許され、秀忠は父と会うことができたのでした。
このため、秀忠は康政に強い恩を感じるようになります。
老中となるも、中枢から身を引く
関ケ原の戦いが終わると、康政は幕閣として最高位の老中に任命されました。
また、家康から領地加増の打診があったものの、関ケ原で戦功がなかったことを理由に断った、とされています。
こうして家康からの扱いは変わらなかったのですが、康政はこの時期から、一線からは身を引き始めました。
関ケ原の戦いに勝利したことで、家康は立場が変わって日本の統治者になります。
そしてそれに伴って、政治や行政に長けた者たちを必要とするようにもなります。
このため、これまで戦場で活躍してきた者たちを冷遇するようになったので、康政は離れていったのだ、という説があります。
しかし康政はこれまでに、政治や行政の方面でも用いられていましたので、この説はやや不自然です。
天下人となった徳川家の内部では、家臣同士の派閥争いも起きるようになっており、主導権をめぐる暗闘が始まるようにもなります。
この時期には本多正信・正純親子が実権を握り、反発する者たちとの争いが強まっていくことになります。
あるいは康政は、そういった動きに加わる気になれず、それで身を引くことにしたのかもしれません。
康政は「老臣が権力を争うのは亡国の兆しである」と述べた、という話もあります。
家康が天下人になるのを見届けたので、自分の役割は終わったのだと、そう思っていた可能性もあります。
やがて亡くなる
その後、康政は在京料として5千石を加増されており、家康からの扱いが変わった様子はありませんでした。
このころに井伊直政が亡くなっていますが、これは戦場での傷が癒えないうちに、関ケ原の戦後処理に奔走していた結果でした。
直政の子である直孝はこの時、まだ13才の子供でした。
早くに父を亡くした子の行く末を心配したようで、康政は「なにか困ったことがあったら自分に相談するように」と直孝の家臣に申し付けています。
しかし康政の寿命も、残りは少なくなっていました。
1606年になると病気をわずらい、それが悪化していってしまいます。
すると康政に恩を感じていた秀忠が、医師を派遣するなどして回復をはかりましたが、かなわず、館林で亡くなっています。
享年は59でした。
系譜が途切れかけるが、家康が継続させる
康政の長男は大須賀氏の養子となっており、次男は早くに亡くなっています。
このため、三男の康勝が後を継いだのですが、彼は大阪の陣の後で、若くして亡くなってしまいました。
このため、榊原家は断絶の危機にみまわれます。
すると家康は、自らこの事態に介入し、康政の長男の子、つまりは康政の孫で、大須賀氏の当主になっていた忠次を榊原家の当主にすると、裁定を下しました。
大須賀氏も家康の重臣の家柄で、6万石の大名だったのですが、この措置によって大須賀氏は断絶となっています。
一つの家を終わらせても、康政の家を続けさせようとしたところに、家康の康政に対する思いを見ることができます。
このように、家康が自ら榊原氏の継続に働きかけたことが前例となり、後に榊原氏は不祥事があっても、断絶されることはありませんでした。
その後の榊原氏
3代目となった忠次は、4代将軍となる徳川家綱の傅役に指名されており、幕府から信頼を受けています。
やがて白河14万石に加増移封され、ついで姫路15万石に移りました。
姫路は西国を抑えるための重要拠点でしたので、忠次が評価されていたことが表されています。
そして忠次は大政参与という、後の大老に匹敵する高位にもついており、榊原氏の家名を高めています。
後に5代目の政倫が後を継いだ際に、彼がまだ3才と幼かったことから、姫路の領主にはふさわしくないとして、越後高田に移封されました。
それから一度姫路に戻りましたが、やがて再び高田に移封され、そこで幕末を迎えています。
そして明治時代には、華族となって子爵の地位を与えられました。
優れた才能の持ち主だった
康政は軍事だけでなく、行政や普請なども担当して実績を残しており、優れた才能の持ち主だったと言えます。
なお、同僚の本多忠勝と比較すると、武勇は劣るものの、指揮能力は康政の方が上だった、と評されています。
康政は人をうまく働かせるのが得意だった、ということのようです。
それぞれに個性は異なっていますが、いずれも家康の創業期から、天下人になるまでの覇道を支えたのは共通しています。
そのような人材を早くから見出し、重く用いたのが、家康の勢力が順調に伸びていった理由となっているのでしょう。
康政はそのことを代表する人物の一人なのだと言えます。