張繡に襲撃される
それから十数日が過ぎると、張繡は曹操を裏切り、陣営を襲撃してきました。
これより以前、曹操が張繡の伯父・張済の未亡人を妾にしていたのですが、張繡はこのために曹操を不快に思うようになりました。
これを知った曹操は張繡を亡き者にしようとしたのですが、それを知った張繡は、曹操を攻撃することにしたのでした。
つまりは曹操の自業自得だったのだと言えます。
曹操は出撃して戦いましたが、敗北し、軽装の馬に乗って逃走しました。
この時、典韋が敵の追撃を食い止めようと、陣営の門のところで戦ったので、張繡軍は進入することができませんでした。
死闘を演じる
やがて張繡軍は、典韋がいる門から侵入することはあきらめ、迂回して他の門から入り込んできます。
典韋の部下はこの時、まだ十数名が生き残っており、皆が必死になって戦いました。
彼らは一人で十人を相手にするほどに奮闘しましたが、やがて敵が次々と押し寄せ、その数が次第に多くなっていきます。
典韋は長い戟を持ち、右に左に打ちすえ、一つの戟が突き入るごとに、十数本の敵の戟が打ち砕かれました。
こうして典韋はおおいにその武勇を発揮し、多数の敵を撃ち倒します。
孤軍奮闘するも、ついに力尽きる
しかし典韋の左右にいた者たちはみな死傷してしまい、ついに典韋は一人きりになってしまいます。
典韋は体に数十の傷を受けながらも、短い武器を手にして、さらに白兵戦を行いました。
すると敵は進みよって、典韋に組み付きます。
これにひるまず、典韋は二人の敵兵を脇に挟んで、彼らを絞殺しました。
このため、他の敵は満身創痍の典韋を恐れ、進み出ることができなくなります。
典韋は最後の力を振り絞って再び敵に突進し、さらに数人を倒します。
しかしそこで傷口が開いてしまい、目を怒らせ、大声で敵を罵倒しながら、ついに力尽きました。
それを見た敵兵は、やっと思いきって前に進み出て、典韋の首を取っています。
そしてそれを、手から手にわたしてまわり、見物しました。
やがては残った敵軍が全て集まり、典韋の体を眺めました。
敵ながらすさまじい戦いぶりだったので、典韋の姿を一目見たいと思うものが、多かったのでしょう。
こうして典韋は、曹操が無事に撤退できるよう、死力を尽くして戦い抜いたのでした。
曹操は典韋の死を悲しむ
曹操は退却した後、舞陰にとどまっていましたが、典韋の死を伝え聞くと、彼のために涙を流しました。
そして遺体を取り返してくる者を募集します。
遺体が戻ってくると、曹操は典韋の葬式に出席して再び涙を流し、棺を襄邑に送り届けさせました。
やがて典韋の働きに報いるため、子の典満を郎中(近衛兵)に任命しています。
その後、曹操は典韋が戦死した場所を通りかかるたびに、中牢(羊と豚)の生贄を捧げ、典韋を祀りました。
自分の過ちが元で、忠勇な者を死なせてしまったのですから、胸中には複雑なものがあったことでしょう。
曹操は典韋のことを追慕し、典満を司馬に取り立て、身辺に仕えさせました。
やがて曹丕が魏王の地位につくと、典満を都尉に任命し、関内候の爵位を与えています。
そして243年に、曹操の霊廟に功臣たちが祀られた際には、典韋もその一員に加えられました。
こうして曹氏は、典韋の忠義に報いています。
典韋評
三国志の著者・陳寿は典韋を許褚と並べて評しています。
「許褚と典韋は曹操の左右で武勇を発揮した。漢の樊噲にあたる人物だと言える」
樊噲は漢の高祖・劉邦の身辺を守った武人です。
鴻門の会で劉邦の危機を救ったことで知られていますが、命がけで曹操を守った典韋には、ふさわしいたとえだと言えます。
曹操が襲撃された理由が理由なだけに、少々しまらないところもありますが、それでも典韋の忠義と、武勇のすさまじさが衰えるわけではありません。
日本では源義経を守って戦死した、弁慶が彼に近いのではないかと思われます。