孫堅 呉の礎を築いた孫策・孫権の父の生涯について

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袁術を説得する

こうして孫堅の勢威が高まると、やがて袁術と孫堅の仲を裂こうとする者が現れ、袁術は孫堅を疑い、兵糧を送らなくなりました。

その者は「孫堅がもし洛陽を手に入れたら、あなたの命令をきかなくなるでしょう。そうなれば、狼を追い払い、虎を得ることになります」と袁術に吹き込みます。

つまり、董卓を追い払っても、そのかわりに孫堅が洛陽の支配者になるだけだ、と疑いを持たせたのでした。

孫堅はこれを知ると、夜通し馬を走らせ、百里(約40km)の距離を走破して、袁術の元に駆けつけます。

そして「私がわが身を投げ出して顧みないのは、上は国家のために賊徒を討伐するためであり、下は将軍(袁術)の家門の仇を報じて差し上げるためです。私には董卓との間に私怨はありません。それなのに将軍は陰口を信じ、私を疑うのですか?」と袁術に述べました。

すると袁術は返す言葉もなく、すぐに兵糧を孫堅の元に送るようにと手配します。

孫堅はそれを見届けてから、自分の陣営に帰還しました。

前線にある将軍は、手柄を立てても後方支援が受けられなくなり、やむなく撤退に追い込まれることが多くなっています。

大きな兵権を握る将軍は、その気になれば謀反を起こして権力を奪取することも可能で、どうしても後方から疑われやすい立場に置かれるからです。

孫堅はそのような過去の事例を思い出し、何としても食い止めるために、自分が無私であることを述べ、袁術を説得したのでした。

ちなみに『三国志演義』ではこの挿話を元にして、袁術が兵糧を送らなかったために、孫堅が董卓軍に敗れた、という筋書きを作っています。

董卓から和睦を申し入れられる

董卓は群雄たちのうち、袁紹と袁術、そして劉表と孫堅を倒せば天下が定まると考えていました。

それほどに、この4人のことは警戒していたのだと言えます。

董卓は孫堅について「東の軍勢はしばしば我が軍に敗れ、俺を恐れて手出しをしなくなっている。ただ孫堅だけは他のやつらほど馬鹿ではなく、人をうまく使う才能がある」と評しています。

そして実際に孫堅が董卓軍を討ちやぶったことから、董卓は使者を立てて和睦を申し入れました。

董卓は「孫堅の子弟のうち、州の刺史や郡の太守にしたい者があれば、朝廷に上表して任官してやろう」と持ちかけます。

これに対し、孫堅は「董卓は天に背いて無道をなし、王室をくつがえした。いま、おまえの一族を皆殺しにしてそれを天下に示さねば、死ぬにも死ねない。どうしてお前とよしみを通じることがあろう」と述べ、きっぱりと拒絶しました。

そして軍勢を洛陽から九十里(約36km)の地点にまで進め、いよいよ董卓の喉元にまで迫っています。

董卓が長安に遷都し、洛陽を焼き払う

このころから、董卓は東から圧力をかけられているため、西にある長安に遷都をしようと計画していました。

そして孫堅の軍勢が迫ってきたために、いよいよこれを決行します。

董卓は単に遷都をするだけでなく、住民を強制的に移住させ、洛陽の城内も、近隣の街も焼き払わせ、何もかもを奪ってから去っていきました。

さらに、代々の皇帝たちの陵墓を暴き、納められていた財宝を奪うという暴挙にまで出ています。

孫堅が洛陽に到着する

孫堅は洛陽に向かって進軍すると、迎撃してきた呂布を撃破します。

そして洛陽に到着すると、廃墟と化した姿を嘆きつつも、荒らされた王室の宗廟を掃い清め、董卓が暴いた箇所を埋め直しました。

この行いによって、後世から「孫堅は忠節な人物だった」という、高い評価を得ることになります。

また、この時に孫堅は井戸に投げ込まれていた『伝国の玉璽ぎょくじ』を入手した、という逸話があり、いつくかの書物にはその様子が描かれています。

伝国の玉璽とは、秦の始皇帝や漢の高祖(劉邦)らが用いたと言われる、非常に権威のある印璽いんじ(ハンコ)でした。

これを手に入れた孫堅は、自らが皇帝になるために密かに隠し持った、などと言われています。

しかしこの行いは、皇帝たちの陵墓を修復した行いと矛盾しており、事実ではないだろうと指摘されています。

その後、この玉璽はどこからも見つかっていないため、作り話である可能性が高いと思われます。

これほどの宝物をいつまでも隠しおおせるはずがなく、表舞台に出てこなかったのは不自然だからです。

そのあたりが疑わしかったからでしょうか、正史にはこの話が収録されていません。

ともあれ、孫堅は洛陽に到達したものの、すでに住民もおらず、街も廃墟になっていたためにやむなく撤退し、魯陽という場所にとどまりました。

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